2,3日前のOCNのトップページに「蟹工船」が再び脚光を浴びているという記事が載っていた。このプロレタリア文学の名作は今年に入り増刷し、例年の5倍以上の売れ行きだそうだ。
小林多喜二作の「蟹工船」、私は高校生の時に読んだ。正確に言えば読みかけた。使われている言葉が難解(当時の自分のレベルでは)だったことと内容があまり面白くなかったこともあり、最初の数ページで挫折してしまった。同じプロレタリア作家の葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」はタイトルの面白さと文章自体がそう難解でなかったこと、また短編小説だったこともあり読むことができた。ただこの「セメント樽の手紙」については、「私の恋人がセメントになってしまった」というこのフレーズは強烈で、プロレタリア文学というよりは今で言うホラー小説というイメージが強かった。
以前にも書いたがプロレタリア作家で後に転向した中野重治の作品にも何年か前に挑戦したが、やはり駄目だった。文章自体はそう難しい言葉は使われていなかったが内容自体があまり面白くなかった。中野重治は若い頃の詩には繊細で叙情的なものが多く感銘を受けたのだが、プロレタリア活動をした後の作品はどうも駄目だ。
プロレタリア運動、私の学生の時も幾分か下火になっているとはいえ、あることはあった。ただ私は左翼学生が叫ぶプロパガンダには共感を覚えていたもののどことなく胡散臭さを感じていた。それは田宮虎彦の短編小説「絵本」の中に出てくる活動家、裕福な学生で本当の貧困の姿を知らないで革命を嘯く、にその姿を投影していたからで、結局左翼の総本山であるソビエトが崩壊することで、彼らが間違っていることを証明することになった。
「蟹工船」のこのブーム、現代の「ワーキング・プア」と呼ばれている人たちが当時の過酷な労働環境を我が身に投影しているからなのだろうか?当時の労働環境と現代のそれとを比較することは一概にはできないが、当時も今も漠然たる不安、どうしようもない閉塞感を社会全体が感じていることは確かであろう。悲しいことだが・・・。