ちょっと前になるが、産経新聞のコラム「産経抄」で“与謝蕪村”の句を取り上げていた。
御手討の夫婦なりしを更衣
不義密通を働き、お手討ちを受けるはずの男女が許され、遠いところに落ち延び晴れて夫婦になり衣替えの季節になった、そういう歌だが、文芸評論家の森本哲郎氏によれば、夏目漱石の「門」執筆の背景にはこの句があったのではないかと推測している。これは氏の著書である「月は東に~蕪村の夢、漱石の幻」に書かれてあり、ネットでこの本のプレビューを調べてみると漱石の「草枕」は蕪村が俳諧で描いて見せた一種の理想郷を小説化したものだという。無教養を曝け出すようで何とも恥ずかしい限りだが、森本哲郎氏の名前だけは知っていたが、氏が何を書かれていたのか知らなかった。このような斬新的な(この表現が適切かどうかはわからないが・・・)考えには改めて敬服する。
蕪村と言えば、もう30年近く前になるが、興味深いエッセイを読んだことがある。大学受験の為ある大学の文学部の過去問を解いていた時、現代文の入試問題にその一文があった。それは安東次男氏が書いた「碑にほとりせん」というもので、蕪村と芭蕉の死生観を述べているものであった。それによると、
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
この句は蕪村の最後の句として有名だが、蕪村の臨終の詞を記した「夜半翁終焉記」にあるとおり芭蕉の「枯野」の句を意識して作られたとは言い難い。むしろ
我も死して碑に辺せむ枯尾花
この句が適切だと安東氏は指摘する。蕪村の墓は京都の金福寺にあり、そこには芭蕉ゆかりの芭蕉庵という庵もある。蕪村の「枯尾花」の句の前書には「金福寺芭蕉翁墓」とあり、前述の「夜半翁終焉記」には「遺骨は金福寺なる芭蕉庵の墻外にとりおさめ、(中略)永く蕉翁の遺魂に仕へ奉らしむ。我も死して碑にほとりせん枯尾花、とかねて此山の清閑幽景をうらやましかれば」と蕪村の遺骨をこの地に葬った謂れが書かれている。一般的に見れば、蕪村の弟子たちは師の気持ちを組みとって尊敬する芭蕉の墓のそばに眠らしてあげてめでたし、めでたしとなるところだが、安東氏によれば蕪村の真の気持ちを弟子たちが理解していたか、疑問を呈している。
何故なら、「金福寺芭蕉翁墓」とされるものは碑であって墓ではない。芭蕉の墓は風光明媚な琵琶湖湖南の義仲寺にあり、そこには平安時代の悲運の武将‘木曾義仲’が眠っている。芭蕉が木曾義仲に親近感を覚えたのは周知のことで、例えば
木曾の情雪や生ゆく春の草
のように木曾義仲の境地を慮った句もある。また門人其角によって書かれた「芭蕉翁終焉記」にも「木曾殿と塚をならべて」とある。芭蕉が何故木曾義仲をこれほどまでに心惹かれたかについて安東氏はこのエッセイには書かれてはいない。ただ木曾義仲は逆賊であり、死の間際に詠んだ
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
この句は辞世の句ではなく、妄執だと言い、臨終に際し死への旅路の同行に義仲公が相応しいと言っているのである。
だとすれば、蕪村がわざわざ芭蕉の墓ではなく、碑に「ほとり」したいと考えたのも納得がいくと安東氏は指摘する。前述の「夜半翁終焉記」で蕪村の臨終で「夢は枯野をかけ廻るなどといへる妙境、及べしとも覚えず」と語ったとあるが、己の死への旅の同行が風凶な俳諧師とは御免被りたいと思ったとしても当然の事であろう。
このような文芸評論は高校の授業では教わっておらず、甚く感動したものだが、またあらためて芸術を極めることの凄まじさに戦慄を覚えたことも確かだった。若いころは文学の道を何と無く志していたが、このエッセイで己の未熟さを痛感した。その後は大学では志望した文学部には行けず、興味もない法学部に進んだ。大学に入ったからはほとんど文学作品は読まなくなり今に至っている。
このブログを記すために以下の文献を参照しました。
碑にほとりせん 安東次男 毎日新聞社 1976年
月は東に ~ 蕪村の夢、漱石の幻 森本哲郎 新潮社 1992年
安東さんの文はほぼ30年ぶりに読みましたが、受験勉強をしていた頃の事が鮮明に思い出しました。森本さんについてはこのブログにも書きましたが、恥ずかしながらほとんど知りませんでした。早速図書館で借りて今読んでいます。面白いことに安東さんが述べられたことに類似すところもあり、興味深く読んでおります。
写真:無料写真AC 満月寺浮御堂 みのやん