五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

甲子園、思い出に残る試合~1980年夏~

 8月になりました。連日連夜うだるような暑さが続いています。8月と言えば、夏の甲子園。何でも今年で大会創設100年を迎え、私は見ていませんが、早稲田実業高校で選抜大会優勝経験を持つソフトバンク球団会長の王貞治さんが始球式を行ったそうです。私の住んでいる静岡県静岡高校(しずこう 以下 静高)が春夏連続2年連続24回目の出場を果たしました。静高は今春の選抜大会でベスト8、惜しくも敗れはしたものの優勝した福井県敦賀気比高校と互角の戦いをしています。静高は看板の強力打線で今大会の優勝候補の一角を担っていましたが、“富士山ダービー”となった山梨県代表の東海大甲府高校との試合に敗れてしまいました。試合は両チーム合わせて24安打の乱打戦、静高は打撃戦を制することはできず、まさかの初戦敗退。前評判が良かっただけに、とても残念です。


栄冠は君に輝く ~全国高等学校野球選手権大会の歌~ - YouTube

 夏の甲子園と言えば、思い出に残る試合があります。それは私が高校3年生だった1980年の夏、私の地元大分県代表の大分商業静岡県代表の浜松商業の試合です。

 もうかれこれ35年も前のことですが、1980年の夏は今年のよう猛暑とは違い、なかなか梅雨が明けず、晴れた日が珍しいくらいに毎日が雨か曇りの冷夏だったと思います。当時私の通っていた高校は甲子園を狙える位置にいましたが、あえなく初戦敗退、しかも内容が悪かった。11安打を放つも得点に結びつけることができずに完敗。夏休みに街で顔見知りの野球部員にばったり出くわしましたが、バツが悪いのか、私の顔を見るなり、逃げるようにそそくさと立ち去ったことを覚えています。

 この年の代表校に選ばれた大分商業(略称: だいしょう 以下大商)、下馬評は高くなかったのですが、あれよあれよと勝ち進み、気が付けば甲子園の切符を手にしていました。大商は前年の1979年にも、のちに巨人の内野手となった岡崎郁さんを擁して春夏連続で甲子園に出場しています。特に夏はベスト8まで勝ち進んでいます。この時の大商躍進の原動力となったのが2年生エースだった松本健さん。松本さんは春の選抜大会で岡崎さんのリリーフで登板し、夏の大会では岡崎さんに変わり、背番号「1」を付け甲子園のマウンドを踏みました。準々決勝の神奈川県代表の横浜商業(以下Y高)との試合、相手のエースはのちにヤクルトに入団した同じ2年生の‘‘ジャンボ宮城’’こと宮城弘明さん。9回までの2対2の同点でしたが、Y高は9回表に集中打で一挙4点を挙げます。9回の裏、大商は何とか1点は返しますが、反撃及ばず6対3で惜敗しています。

 前年の雪辱を期して2年連続で甲子園出場を果たした大商、初戦の相手は後に大洋(現DeNA)で活躍した欠端光則投手を擁した岩手県代表の福岡高校。この試合でまさかのアクシデントが発生します。福岡高校の攻撃中にエースの松本さんの左肘に激痛が走り、投球がままならなくなります。何とか福岡高校の攻撃をかわした松本投手、ベンチに戻ったらすぐに監督の後藤美次さんに相談します。後藤監督の出した指示は「出来るだけ遅い球で勝負しなさい。」、このスローボールで勝負という苦肉の策が功を奏し、松本投手は球数は180球を超えましたが、辛くも4対2で福岡高校を振り切ることが出来ました。

 続く2回戦の相手は2年前の春の選抜大会で優勝した静岡の強豪の浜松商業(略称:はましょう以下浜商)。2回戦まで5日間ありましたが、その間必死の治療も虚しく松本投手の左肘の痛みは治まりませんでした。結局、対福岡高校戦同様にスローボールで浜商に挑むことになります。さすがに今回は大商の劣勢が予想されましたが、意外にも浜商は松本投手の投球に翻弄され、凡打の山を築き、気が付けば4回までパーフェクトに抑え込まれます。

「キャッチャーのサインはたったひとつ。外角の直球一本槍。野手は飛んできた打球に必死に喰らいついて守り抜く。これは、言ってみれば野球の原点ですよ。あの子たちは持てる力のすべてを出し切ってその原点で勝負を挑んだわけです」

              敗け組甲子園 1980年大分商業+浜松商業 スローボールより

  この試合、私は受験勉強の息抜きでテレビで見ていましたが、とにかく松本投手の球は驚くほど遅い。例えて言うなら、相手を座らせてキャッチボールをしている感じです。後に「打者に向かって投げる球より牽制球の方が早かった」という伝説が作られるほどで、あれなら私が投げた方が早いんじゃないかと本気で思っていました。でも不思議なことに、見た目小学生レベルの球速にもかかわらず、浜商のバッターはタイミングを合わせるのに苦労していました。

 話は前後しますが、新チームになった大商は79年の秋、私の通っていた高校と練習試合を行うために来校しましたが、その時私は松本投手の投球を直に見ました。当時130㌔くらいの球速だと本に書かれていましたが、ブルペンで投げる松本投手の投球はコントロールが抜群で、早い球をビュンビュンとキャッチャーのミット目掛けて投げていました。今までこんな早い球を投げる人を見たことがなく、甲子園でベスト8まで行く人は凄いと改めて思いました。

 攻めあぐねる浜商を尻目に先制したのは大商、4回表、浜商の守備の乱れに乗じて2点を挙げます。この時ひょっとして大商が勝つのでは思いましたが、そこは試合巧者の浜商、徐々に松本投手の球筋を見極め始め、またセーフティバントを多用し大商の守備陣を揺さぶります。5回裏、松本投手は味方に足を引っ張られる形で3点を奪われ逆転されます。その後は膠着状態が続き、迎えた8回表、大商は遂に3対3の同点に追いつきます。しかしその裏、力尽きたのか松本投手は浜商打線に連打を浴びて2点を取られ、試合は5対3で惜しくも敗退、松本投手の甲子園での夏は終わります。

 大商を撃破した浜商、大商との熱戦が祟ったのか、今度は2年生エースの浜崎修投手が肩を壊してしまいます。3回戦の宮城県代表の東北高校戦、東北はのちにプロ野球で活躍する安部理さん(西武)、中条善伸さん(巨人)を擁しましたが、浜崎投手はスローボールを多用し、6対4で辛くも逃げ切ります。迎えた準々決勝の滋賀県代表の瀬田工業戦、監督の強い要請で浜崎さんは先発しませんでした。しかし控えの投手が四球を連発し自滅、浜崎さんは急遽マウンドに上がりますが、瀬田工業の強力打線に滅多打ちされ、20対5の大差で浜商は敗れ甲子園を去ります。

地元に帰って、「何故、控えの投手に代えなかった」という中傷が後藤と松本の周辺に集中した。ふたりは沈黙を守ったままだった。

〈あの時のベンチのムードを知らずになにを言う・・・・〉という思いが、後藤にはいまでもある。

 いずれにしても、代えるつもりも代わって欲しいという気持ちもふたりにはなかった。試合は、終盤までもつれ込んだシーソーゲームだったのだ。一番頼りがいのあるキャプテンのエースを代える必要など、さらさらなかったことは言うまでもない。

               敗け組甲子園 1980年大分商業+浜松商業 スローボールより

  松本さんは卒業後はノンプロに進まれたようです。詳しくはわかりませんが、数年経って野球の世界から身を引いたそうです。監督の後藤さんはその後も大商を率いますが、大商はしばらく低迷し、甲子園に再び出場したのは17年後の1997年のことでした。

 大商のみならず、最近では大分県高校野球自体が低迷しています。最近ではソフトバンクで活躍している今宮健太さんがいた明豊高校が2009年にベスト8に行ったのが最高で、それ以降はほとんど1回戦敗退、しかも大差を付けられています。大分県出身者として、この状況は寂しい限りです。

 そんな中、甲子園春2回夏8回出場し10年間甲子園から遠ざかっている柳ヶ浦高校に元プロ野球選手で南海、ダイエーソフトバンクで選手・コーチとして活躍された定岡智秋さんが監督に就任されました。定岡さんはプロ野球を引退された後、独立リーグ、高知ファイティングドックスの監督をされて、チームを日本一に導いています。元プロ野球選手が高校や大学で指揮を執られるケースが増えていますが、賛否はともかく、低迷が続く大分の高校野球起爆剤になってくれたらと密かに願っております。

 

 この記事を書いている時、ちょうどその明豊高校宮城県代表で今大会の優勝候補の仙台育英高校と対戦しており、6回が終わった段階で10対0と大差を付けられて敗けています。おいおい・・・。

 追記:この試合12対1の大差で仙台育英が明豊を撃破しました。仙台育英は先発全員が20安打を放ち、投げては今秋のドラフト候補の佐藤世那投手が8回を4安打1失点に抑える好投を見せました。この試合で仙台育英は1試合10二塁打の大会新記録をマークしました。

 この記事を執筆するに当たり以下の本を参照にしました。

敗け組甲子園―ドキュメンタリー

敗け組甲子園―ドキュメンタリー

 

 

追記:2007年、大分県大会ノーシードから甲子園ベスト8に進出した楊志館(ようしかん)高校。その裏に進行性の癌と闘いながらチームを支えた女子マネージャーがいました。この「あっこと僕らが生きた夏」は「あっこ」こと大崎耀子さんの闘病ノートをもとに書かれたもので、2012年4月に川島海荷さん主演でNHKでドラマ化されました。

あっこと僕らが生きた夏 17歳女子マネージャーがナインに託した、命のバトン

あっこと僕らが生きた夏 17歳女子マネージャーがナインに託した、命のバトン

 

 

f:id:Kitajskaya:20150802215520j:plain

 

写真:無料写真素材AC 甲子園

参照:ドキュメンタリー 敗け組甲子園 島津愛介 日本交通公社出版事業局

   産経新聞 2015年8月8日 静岡 打撃戦敗れる

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

ランキングに参加しています。クリックして応援していただけたらうれしいです!


人気ブログランキングへ