12月に入って急に寒くなりました。先週は娘は修学旅行で沖縄に行きましたが、旅立つ前日寒さの影響か体調がすぐれず、旅行中は何とか持ったようですが、藤枝市に帰ってからすぐに体調不良を訴え、昨日病院に行きました。幸いに大した症状ではありませんでしたが、当地藤枝市では12月初旬とは思えないほどの寒い気候がここ数日続いており、寒さ対策には万全を機したいと思います。
さて、昨夜漠然とテレビを見ていると驚くべき光景が・・・。何と!!不仲を噂されている川勝平太静岡県知事と田辺信宏静岡市長のまさかのツーショット・・・。お互いぎこちない表情、というか気まずそうでしたが・・・。一体何事かと思いよく画面を見てみると、川勝知事と田辺市長の御両人は静岡市清水区で開催された「大政奉還から150年、当時の街道・宿場を見つめ直す東海道57次交流会」という催しに参加した模様でした。この催しには野田聖子総務大臣や河村たかし名古屋市長(ビデオ参加だったそうです)といった有力政治家も参加し大いに盛り上がったそうです。
“えっ!?東海道は57次だったの!!”。昔から歴史の授業では東海道は53次と教えられていましたが、この催しの東海道は57次って!!どういうことなのかちょっと調べてみました。
まずはこの催しについて、12月10日の中日新聞朝刊の静岡版の記事からです。
江戸時代の街道の一つ東海道は五十三次ではなく五十七次だった-。静岡と大阪の民間有志が東海道にまつわる歴史の情報発信を強化しようと九日、静岡市清水区の国登録有形文化財の志田邸で、姉妹館提携の締結式を開いた。
姉妹館となったのは、志田邸内にある「東海道町民生活歴史館」「東海道五十七次・中山道六十七次交流館」(志田威館主兼館長)と守口文庫(大阪府守口市、菊田芳理事長)。
志田館主らによると、江戸時代の東海道の宿場は歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」などがあることから、品川宿(東京都)-大津宿(滋賀県)の「五十三」と説が一般的。ただ古文書の中には「東海道守口宿」など五十三以外の宿の記載があることから、「五十七次」だったとして、守口市の市民有志らが歴史マップを作るなど情報発信に取り組んでいる。
志田邸がある蒲原地区は東海道の宿場があった場所の一つ。宿場つながりで連携し、情報交換をし、観光促進につなげるねらいだ。
志田館主は「守口文庫には、江戸時代の文書があり、『東海道守口』という帳簿がたくさんある。互いに交流をしていきたい」と話した。
2017年12月10日 中日新聞静岡版 東海道「五十七次」を発信
提携 静岡・志田邸と大阪・守口文庫より引用
東海道五十三次は江戸時代の浮世絵作家である歌川広重の絵画で有名で、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る53の宿場を指します。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は政治力を強めるため、江戸と地方各地を結ぶ、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の5つの街道を整備します。この時に整備された東海道は江戸の日本橋から小田原、府中(静岡)、浜松、宮(名古屋)を経て、船で伊勢湾を渡り、桑名、草津を経て京都の三条大橋まで53の宿場があります。距離にして約490km、途中には大きな河川が何本もあり、大井川や安倍川などの河川は江戸幕府によって渡し船が禁止されており、川越人夫によって川を渡る必要がありました。これらの河川では天候によっては川の増水により川止めになることもあり、その分宿泊代も加算し、諸大名や旅人の懐を直撃します。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という句もありますが、文字通りに旅人泣かせだったと言えます。逆に宿の人たちからすれば、大雨の際は何泊もするのですからホクホクだったことでしょうねえ!?
静岡県には東海道53次の宿場町が22宿ありました。下記はその一覧です。
宿名 | 旧国名 | 現在地 |
三島(みしま) | 伊豆 | 三島市 |
沼津(ぬまづ) | 駿河 | 沼津市 |
原(はら) | 駿河 | 沼津市 |
吉原(よしわら) | 駿河 | 富士市 |
蒲原(かんばら) | 駿河 | 静岡市清水区 |
由比(ゆい) | 駿河 | 静岡市清水区 |
興津(おきつ) | 駿河 | 静岡市清水区 |
江尻(えじり) | 駿河 | 静岡市清水区 |
府中(ふちゅう) | 駿河 | 静岡市葵区 |
鞠子(まりこ) | 駿河 | 静岡市駿河区 |
岡部(おかべ) | 駿河 | 藤枝市 |
藤枝(ふじえだ) | 駿河 | 藤枝市 |
島田(しまだ) | 駿河 | 島田市 |
金谷(かなや) | 遠江 | 島田市 |
日坂(にっさか) | 遠江 | 掛川市 |
掛川(かけがわ) | 遠江 | 掛川市 |
袋井(ふくろい) | 遠江 | 袋井市 |
見附(みつけ) | 遠江 | 磐田市 |
浜松(はままつ) | 遠江 | 浜松市中区 |
舞阪(まいさか) | 遠江 | 浜松市西区 |
新居(あらい) | 遠江 | 湖西市 |
白須賀(しらすか) | 遠江 | 湖西市 |
このうち、鞠子・岡部・藤枝については以前このブログでも紹介しています。
東海道五十三次でもっとも小さい宿場だった鞠子宿。現在の静岡市駿河区丸子あたりですが、ここには慶長元年(1596年)創業のとろろ汁の老舗「丁子屋」があります。
鞠子宿を出て、次の岡部宿に至るには宇津ノ谷峠を越える必要がありました。宇津ノ谷峠には“蔦の細道”という奈良時代から平安時代にかけて造られた古道がありましたが、1590年の豊臣秀吉の小田原遠征の際、進軍に不利なため新たに別ルートを整備しこれが江戸時代から明治にかけて旧東海道として発展しました。
岡部宿のある現在の藤枝市岡部町岡部には1836年に建てられたとされる国の登録文化財に指定されている“大旅籠柏屋(おおはたごかしばや)”があります。
藤枝宿は現在の藤枝市藤枝にあったとされています。ちょうど今私が住んでいる近辺です。
藤枝宿を過ぎ、次の島田宿に向かうちょうど中間点に東海道の立場(たてば、宿場と宿場の間に休憩場所として設けられたもの。立場には茶店などがありました。)の瀬戸があり、そこで糯米を蒸した強飯(こわいい)を梔子(くちなし)の実で黄色く染めた染飯が名物として売られていて、東海道を行き交う旅人にとって疲労回復の食べ物として評判が良かったそうです。
さて東海道五十七次ですが、どういうことかと言うと、東海道五十三次の最後の宿場の大津から京都の三条大橋に向かわず、大坂に向かう街道(京街道、もしくは大坂街道と言います)の4つの宿、伏見(ふしみ)・淀(よど)・枚方(ひらかた)・守口(もりぐち)を加えた事だそうです。
1594年隠居後の住まいとして伏見城の築城に着手した豊臣秀吉は毛利輝元、小早川隆景、吉川広家らの毛利一族に命じて、淀川が氾濫するのを防ぐため淀川の左岸に堤防を建設させます。文禄堤(ぶんろくつつみ)と名付けられたこの堤防の上を伏見から大坂にいたる「京街道」として整備します。その後徳川2代将軍秀忠の時代の1619年、この京街道に「伏見」「淀」「枚方」「守口」の4つの宿を新しく設けました。これは参勤交代で東海道を往来する西国の諸大名が、京にいる朝廷に接触することを極度に警戒した徳川幕府が造った街道でなおかつ「宿」でもあったと言えます。
これらの4つの宿と東海道五十三次の宿を足したものが“東海道五十七次”。何でも一部の歴史の教科書には記載されているそうです。また京街道上にある枚方市や守口市では看板には以前から東海道56番目の宿や57番目の宿と掲げらていたそうですし、枚方市では20年も前から「東海道」を観光に結びつけた町おこしもやっているそうです。
では何故東海道は五十三次として世間一般に知られていたのでしょうか?これには諸説あると思いますが、総合出版社の風人社さんの見解では、京から大阪へ向かうのは西国からの参勤交代する武士階級や大坂に用事がある商人がメインで、一般の庶民は観光でお伊勢参りに訪れたあとついでに京の町を行ったかもしれませんが、余程のことがない限りはその先の大坂には向かわないとのこと。歌川広重が浮世絵で「東海道五十三次」を描いたのもそうした庶民感覚の故であり、京~大坂には描く必要性がなかったのではないかとされています。確かに言われてみればそうかもしれませんね。
催しが開かれた志田邸内にある「東海道町民生活歴史館」では、12月9日から「守口宿のパネル展」を開催しています。なお冒頭に述べた川勝知事と田辺市長のツーショットをもう一回見ようとネットでニュースの動画を調べてみましたが、見つけることはできませんでした。大概のニュースの動画は各放送局がアップしているのですが・・・。これって忖度、いや政治的配慮があったのですかねえ・・・!?
東海道57次交流会 が開催された志田邸のホームページです。
東海道に関する過去の記事からです。
私の第2ブログ「ぶらりフォト日記」から東海道に関する記事です。
関連する書籍です。
宿場見つめ直すイベント開催・静岡
産経WEST 東海道は実は「57次」あった・・・
最終地「守口宿」が今年で400年 新名物も登場
Wikipedia 東海道五十三次、東海道五十三次(浮世絵)、東海道、文禄堤
中日新聞静岡版 2017年12月10日付 東海道「五十七次」を発信
提携 静岡・志田邸と大阪・守口文庫
写真:無料写真素材 写真AC 三条大橋 masa2
日本橋 松波庄九郎
大阪城 Harrie
お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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