五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

父、父として

 今週のお題「お父さん」

  父は公務員でした。今でこそ、公務員は仕事量が少なく、安定していて収入がいいというイメージがありますが、私の子供の頃の父はいつも帰りは遅く、しかも家は貧乏というほどではありませんが、あまり裕福でなく、贅沢な事をした記憶はありません。当時としては共稼ぎは珍しかったのですが、母親も保母として働いており、私と双子の弟の面倒は同居していた主に祖父母(特に祖母)がみていました。

 父と母は見合い結婚でしたが、父との結婚が決まったときに、母は周りからあまり収入がよくない公務員と一緒になることについて「お金に苦労する」とかなり同情された事を、よく母の口から聞かされてきました。

 だから子供の頃、両親と旅行に行った記憶はありません。日本人の3人に2人が行ったとされる大阪万博にもクラスでは私と弟だけが行っておらず、保育園の頃に親子4人で海に行ったことが親子水入らずの唯一の記憶です。

 そんな訳だから、田舎では必須である🚙も我が家では持っておらず、父も母も通勤には自転車🚲を使っていました。私が子供時代の60年代から70年代にかけて、モータリゼーションの普及は田舎町ではそれほどはなかったと思いますが、それでも同級生の中で家に車がないのは少数派だったと思います。

 父は朝は定時に出かけていきましたが、夜は遅くまで働いていました。子供の頃、平日の夕餉の時間に祖父母を含め家族6人全員で食事をした記憶が週に1,2回あればいいほうでした。またたまに早く帰っても、部下や同僚を労うためか、月に数回自宅で宴会を開いていました。そのせいか家計には自由に使えるお金があまりなく、お金の無駄遣いに厳しく、特に電気や水道の消し忘れなどがあると、母親から烈火のごとく怒られました。子供の頃には両親からお小遣いというものを貰ったことはありませんでした。

 また父は日曜日となると職場の人たちとの付き合いで朝早くから釣りに出かけており、日曜日に父とは顔を合わすことは雨の日を除き、あまりなかったように思います。

 ただ兼業農家だったこともあり、しかも前述したとおり、父は日曜日に釣りに行くので食べることには困ることはありませんでした。父には漁業に関して特別の才能があるのか、釣ってくるのみならず、今では漁業権がうるさいのであり得ないことですが、アサリやハマグリとかの貝類を肥料袋いっぱいに捕ってきたりしていました。

 田や畑があったので、野菜を買うという事はほとんどありませんでした。その代わりにおかずはいつも魚介類と野菜が中心で、が食卓に上ることは年に数回しかありませんでした。母親は私たち子供の無知に付け込み、当時田舎では珍しかった牛肉を食べたいとせがむ私たちに対し、豚肉を牛肉と信じ込ませており、この事実を知った大学に入ってからで、その時赤っ恥を書いたことを覚えています。

 父は(これは母もそうですが)外面がよく、職場や近所の人たちで父の事を悪く言う人はあまりいませんでした。父はかなり仕事はできたようでした。父は理系出身で、元々は大学卒業後は、長崎県にあった某財閥系の鉱業会社に就職していたようです。それが入社後すぐに上司と反りが合わずに辞め、実家のある大分に戻り、公務員になった過去があります。だから公務員はいわゆる中途入社でした。

 家庭面での父はというと、穏健な外面とは全く正反対、天上天下唯我独尊、おまけに九州の男性の特徴でもある亭主関白で、酒癖が非常に悪かったです。あと父と母、父と祖父母との折り合いが悪く、たまにある家族6人全員で食事の時はまるでお通夜のようで、各自皆、食事が済めばそそくさと逃げるように自分の部屋に行くという、温かみのない団欒でした。

 父はかなりの毒舌で、できの良かった弟はそれほどではなかったようですが、私は何をやっても「おまえは駄目だ!駄目だ!」と容赦なく自分を否定し続ける言葉を言われ続けていました。父に限らず、私の家系は、父方母方に限らず、学歴崇拝の志向があり、その所為なのか、私が父に褒められたのは浪人した後、ある程度名前のしれた大学に合格した時が初めてだと思います。

 これは母や祖父(祖母はさすが言いませんでしたが)も同様でした。このような環境だからなのかは分かりませんが、私は臆病で、何をやるにも自信が持てず、自己肯定感が低い、そしていつしか他者にも否定的な歪んだ性格、一言で言えば‟嫌な人“、となってしまったように思います。

 また私は発達障害の傾向があり(気付いたのはずいぶん先のことですが)学校では周りにうまく馴染める事ができず、ましてや家でもそうですから、どこにも居場所がなく、10代の頃は一日も早く実家から脱出することばかり考えていました。

 大学に入学してからは、東京に大学があったこともあり、実家に帰省することはあまりなく、4年間で3回くらいかな、さらに卒業後の就職先が当時はあまり知名度がなかったせい(今は違いますが)もあって、「名の知れた大学に入れたのにこの体たらくか!!」と父の怒りを買い、「もう帰ってくるな!」と暴言を吐かれ、売り言葉に買い言葉か、私も頑固なので、祖父がで入院するまで6年間は実家に帰ることはありませんでした。(その事については、のちに祖父が亡くなった後、親戚筋からかなり嫌味を言われましたが・・・)

 時が過ぎ、いつしか私も結婚し、家庭を築くことになり、今では2人の子供の父親となっています。今年は結婚して25年、銀婚式を迎えることになりました。結婚してからは、両親も随分と丸くなったことや嫁の手前もあって、必ず年1回は帰省するようになりました。

 結婚して新しく家庭を築くにあたって、一家団欒を夢見ていた私は、「食事の会話がある家庭」「夫婦水入らず」「子供には否定的なことを絶対に言わない」と心に決めていました。これは子供の頃のトラウマからなのですが、「夫婦水入らず」を除き、あと2つは実現できたかなあと思います。

 ただ家庭をもって、私も人間的に成長したかどうかはわかりませんが、あの頃の父の心情も段々とわかるようになってきました。

 父は仕事ができるいわば‟切れ者”だった故に、何事もそつなくこなすので、逆に何も出来な不器用な私を理解できなかったのではなかったのではないかと思います。そしてきつく言われても、そこから努力して這い上がろうとしない私を不甲斐ないとし、奮起を促す意味で更にきつい口調で言ってきたのではと思います。

 元来、父方の家系は‟下の子供の方が出来がいい”傾向にあり、私たち兄弟も弟の方が優秀でした。うちの子供たちも下の子供の方がこと学業に関してだけ言えば、上の子よりもできる傾向にあります。

 それは父の代でもそうでした。父のすぐ下の叔父さんは京阪神の有名国公立大学を卒業し、首都圏の主要な官庁に勤めていました。ことの真偽は定かではありませんが、1964年の東京オリンピックの際にも何らかの重要な業務に携わっていたと聞いています。父の方も当時としては、大学卒が珍しい時代に同じ京阪神の私立の大学に入学していますが、難易度においては叔父さんの出身大学と雲泥の差があり、叔父さんとの関係は表面上に穏やかなものでしたが、父には叔父さんに対する内なるコンプレックスは相当なものがあったのではないかと推測されます。

 だからなのか、祖父は父より叔父さんを買っており、父のことはあまり評価はしていなかったようです。さらに言えば、当時の花形産業だった某有名企業を途中で辞めたことに関しても良くは思っておらず、恐らくは私が就職の際に言った言葉を、そのまま祖父から投げかけられたのではなかったのか?うちでは父と祖父の関係が異常に悪くなったのは、父の叔父さんに対するコンプレックスもさることながら、自分をあまり認めてくれない祖父に対する怨嗟のようなものがあった、とのちに祖母が母に何気に語っていたことを今でも覚えています。

 叔父さんには私たちと同じ年の男の子(私たちにとっては従弟ですが)がいたので、従弟に対抗する上でも、私の不甲斐なさが余計に目に着いたかもしれません。

 父は家庭より職場や地域を重視した人でした。公務員は中途入社と前述しましたが、そのことも父の家庭での行動を形成する上で大きな要因となったのではないかと思います。

 私は会社員としてはダメな部類であり、人付き合いが苦手で人間関係を円滑にする努力を怠ってきました。父の場合は職場環境をよくするために、積極的に人との関係を構築してきたようです。それが釣りであったり、自宅で部下や同僚を招いての宴会だったように思います。自宅の電話は平日・祝祭日、公私を問わずに父あてによく掛かってきていました。また地域のお祭りとかイベントにも積極的に関与しており、自宅でゆっくり過ごすということが皆無だったように思います。

 そういえば、今考えれば人間関係のストレスが原因だと思うのですが、父は1か月ほど内蔵の疾患で入院したこともありました。そうした父の行動は私には到底真似ができるものではなく、快適な人間関係を構築していく父のその弛まぬ努力に対しては、今では私は敬意を表さざるを得ません。

 また母によれば、父は仕事ができ、出世も早かったようです。ただ中途なのか、それが一部の生え抜きの人達には面白くなかったことも事実です。子供の頃、珍しく父と一緒にいる時、父の知り合いの人から「途中から入ったくせに!」と陰口を言っているのを聞き、子供ながらも悲しくなった覚えがあります。

 だからこそ、父としては仕事に関して常に真摯に取り組み、また職場内の人間関係を良好にするために外面が良くなったと思いますし、それはひいては私たち家族を守るためであり、私たち兄弟をどこに出しても恥ずかしくない立派な社会人にするためだったと思います。酒癖が非常に悪かったのは、職場内で思っていることを口に出せず、同僚や部下のプライドを考慮したかもしれず、そのために溜めていたストレスが尋常ではなかった証かもしれません。

 父は現在87歳になります。今では実家のある大分の田舎町で悠々自適な生活を母と2人で送っています。公務員を辞めてもう25年以上が過ぎてしまいました。辞めてからは再就職の誘いもあったようですが、きっぱりと断っています。若い頃のトラウマで、父との間にはのようなものが出来てしまい、腹を割って話すことはできません。ただ父に対しては今まで育ててくれた感謝の気持ちとしかありません。面と向かって言うことはできませんが、改めてここで言います。

 

 お父さん、今までどうもありがとうございます。

  どうかいつまでも末永く元気にお過ごしください。

 

  最後になりましたが、私と父は博打女性には全く縁がなかったことだけは共通点があります。ほかの家庭がどうだったかはわかりませんが、父と母はしょっちゅう言い争いをしていましたが、喧嘩の原因が父の浮気ということはありませんでした。職場に若い女性がいなかったわけでもないでしょうし、父の容姿に問題があったわけではないようです。もてない要素はあまりないように思われますが、どうなんでしょうか?まあそんなことは今さら父にも聞けませんものね!!

 

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写真:無料写真素材 写真AC 黄色のラナンキュラス kangal

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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