人は、望むか、望まないかを問わずいずれ死ぬ。死は平等にその人のもとに訪れる。そのあり方が、病死、自殺、殺されるか、ではあるが、今のところ自殺を除き、自分の最後を選択することはできない。
先日(といってももう一月以上前だが)、千葉景子という法務大臣が死刑を執行した。法治国家である以上、賛否はあるものの死刑執行はやむをえないが、彼女は死刑廃止論者ではなかったのか?死刑廃止論者が法相に就任するのもおかしいが、自説を容易く曲げる変節漢ぶりには驚いた。死刑廃止論者ならば法相就任など受けるべきではない。更に自ら刑の執行に立ち会ったこと、死刑場の公開したことにはもっと驚いた。
千葉の死刑場の公開には、ネット上や巷でも様々な意見がある。自分の考えていることが正しいとは思わないが、一連の彼女の行動を見ていると、死というものをショーアップしているような印象を受ける。例えが悪いが江戸時代の市中引き回しの上,磔・獄門、最後は晒首にされる様に思えて仕方がない。
刑の重さは、その犯罪を行ったときに罪によって評価されるべきで、囚われの身になってからいくら反省をしても、刑の重さを左右すべきではないと思う。ただ、死刑によって最後を迎えるにあたっては、抑止力の問題があるにせよ、最後くらいは粛々と迎えさせてやるべきではないのだろうか?
千葉景子さんは市民運動家出身の政治家だそうだが、彼らのことを見るにつれ、中学校か高校の頃読んだ田宮虎彦の「絵本」という小説に出てくる活動家の大学生ことを思い出す。
写真:無料写真素材 写真AC 絞首刑 Dunhill