五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

もう一つの9.11~チリ軍事クーデターとビクトル・ハラ

 2001年9月11日、アメリカ合衆国で航空機を使った4件のテロ事件が発生した。のちに「アメリカ同時多発テロ事件」と名付けられたこの事件、ハイジャックされた航空機がマンハッタンの高層ビル群やアメリカ国防総省(ペンタゴン)に突撃するという前代未聞の惨劇は全世界の人々に衝撃を与え、「9.11」は今もなお世界中の人々の脳裏に焼き付いている。これより遡ること28年前の同日、南米チリでアメリカ同時多発テロ事件に匹敵するクーデターが発生した。この惨劇については日本ではあまり知られていないが、ラテンアメリカ諸国では、「9.11」はこのチリのクーデターを指すことが多い。

 

選挙で選ばれた世界初の社会主義政権

 

  1970年チリの大統領選挙で社会主義政党の連合である統一戦線を率いるサルバドール・アジェンデが当選した。これは世界史上初の自由選挙で選ばれた社会主義政権であった。アジェンデ政権は企業や鉱山の国営化の推進、農地改革による封建的な大土地所有制度を解体するなどの大胆な改革を行い、またキューバソ連などの社会主義国との友好関係を促進した。政権交代後しばらくは経済も順調で、翌1971年の国政選挙でアジェンデ率いる人民戦線の得票率は過半数を超えた。しかしアジェンデ政権の社会主義的な経済政策は性急すぎ、チリの実態経済にはそぐわないものであった。大衆迎合とされた政策は国庫の枯渇を招き、インフレや物不足に陥り次第にチリの経済は失速する。また企業や鉱山などの国営化や農地改革は資本家や大地主の強い反発を招く。加えてチリはアメリカからの執拗な干渉に苦しむことになる。

 「共産主義国は暴力によってしか生まれない」というプロパガンダを公言してきたアメリカにとって、選挙によって選ばれたアジェンデの社会主義政権は自らの正当性を揺るがしかねない由々しき事態であり、決して許容できるものではなかった。当時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンは西側諸国と連携し経済封鎖を行い、チリの経済に大打撃を与えた。また国務長官であったヘンリー・キッシンジャーはCIAを使い、アジェンデ政権に不満を持つ富裕層、また労働組合を焚き付けてデモやストライキを決行させ社会不安を煽った。

 こうした混乱は政情不安を呼ぶ。1971年末から野党は連合してアジェンデ政権を批判するようになり、さらに1972年6月には与党である人民連合内部でも路線対立が尖鋭化するに至った。1970年の大統領選挙では人民連合を支持したキリスト教民主党は反アジェンデに転向し、アジェンデ政権は窮地に追い込まれることになった。

 しかし、政治的・経済的な混乱やアメリカの陰湿な陰謀工作にもかかわらず、アジェンデ政権は高い支持率を保つ。1973年に行われた総選挙では、アジェンデ率いる人民連合は大統領選よりも支持率を伸ばす。このような状況の中、反アジェンデ勢力とアメリカは武力による政権転覆に傾いていった。

 

「9.11」クーデター

 

 1973年6月29日、ピノチェト率いる陸・海・空軍と反アジェンデ勢力は首都サンティアゴの大統領官邸であるモネダ宮殿を襲撃するが失敗に終わる。これは軍の代表であるカルロス・プラッツ陸軍総司令官が「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主で、軍への統制の賜であったが、次第に軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり、1973年8月22日にプラッツは辞任に追い込まれた。プラッツの後任に選ばれたのがアウグスト・ピノチェト将軍であった。 1973 年9月11日、ピノチェトはCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを決行した。当時の軍部はほとんどが反アジェンデ派で占められており、軍事クーデターに対して政府は有効的な手立てをとることができなかった。 アジェンデ大統領の周囲には大統領警備隊などごく僅かの味方しかいなかったとされている。サンティアゴの町には戦車が蹂躙し、空に戦闘機の爆音が響く中、アジェンデは辞任やモネダ宮殿からの投降を頑なに拒否し、自ら自動小銃を持って抵抗する。しかし応戦虚しく激しい砲爆撃のなか、モネダ宮殿は炎上、軍と大統領警備隊の激しい銃弾戦が続く中、アジェンデは最後のラジオ演説を行い、「民主主義は軍部に降伏しない。チリ万歳! 人民万歳! 労働者万歳!」という言葉を残し、キューバカストロ議長から贈られた自動小銃で自決する。

 

クーデター後のチリ~独裁者ピノチェトの誕生~

 

 クーデター後、陸・海・空軍と国家憲兵隊のトップからなる軍政評議会が発足し、ピノチェトと軍政評議会のメンバーがチリを支配することとなり、ピノチェトによる軍事独裁政権が誕生した。クーデター後、直ちに戒厳令が敷かれ、政権を握った軍部は凄まじい限りの「左翼狩り」を行う。人民連合を支持した者や労働組合員を始め、多くの市民が犠牲となった。アジェンデ派と目された人々は根こそぎ逮捕され、臨時の強制収容所であるサンティアゴ・スタジアムに連行され、水も食料も与えられず、長い間放置され、揚句に激しい拷問により多くの人々が容赦なく虐殺された。

 チリの国民的詩人で1971年にノーベル文学賞を受賞し、アジェンデ政権では駐仏大使を務めたパブロ・ネルーダは、がん治療のためチリに帰国していたが、クーデター後に病状が悪化し救急車で病院に搬送中、執拗な検問に会い、その都度激しい取り調べを受け、病院に着いたときは既に亡くなっていた。一説によると薬殺されたのではないかと言われている。

 政府関係者も例外ではなく、ピノチェトの前の軍のトップである陸軍総司令官カルロス・プラッツは亡命先のアルゼンチンで、クーデターの翌1974年9月にピノチェトの創設した秘密警察が仕掛けた車爆弾により妻とともに暗殺された。またアジェンデ政権下で外務大臣を務めたオルランド・レテリエルも、1976年9月に滞在先のアメリカで同様に秘密警察による車爆弾で暗殺された。アジェンデ政権末期には軍部と連携してアジェンデ打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後には非合法化されている。ピノチェトが大統領を辞任する1990年3月まで殺害された人は3000人以上、拷問を受けた人が28000人、投獄された人は70000人とされている。

 ちなみに、かつてNHKのテレビ人形劇に「プリンプリン物語」という番組があったが、そこに登場する「アクタ共和国」はチリ(塵と芥の例えで)のことを、「アクタ共和国」の独裁者「ルチ将軍」はピノチェトのことを指しているといわれている。

 サンディアゴ・スタジアムに連行され、激しい拷問の末に虐殺された人々の中にチリの国民的歌手で演劇人でもあったビクトル・ハラがいた。

 

 

 ビクトル・ハラは1938年チリ南部の貧しい農家に生まれた。貧しい中、努力の末に奨学生となり、チリ大学演劇学部に進む。最初は役者を目指すが演出家としての頭角を現し、同大学の演劇部の舞台監督にもなっている。同時に音楽活動にも従事するようになり、1957年にはチリを代表する民族音楽家のビオレータ・パラと出会う。ビオレータ・パラの影響を受けたビクトルはチリ国内の民謡を収集し、みずから歌詞を付けて歌うようになる。また農村で大地主に搾取される小作人の惨状を目の当たりにした彼は、次第に社会変革の必要性を意識するようになった。

 当時ラテンアメリカ諸国では音楽を通した社会変革運動としてヌエバ・カンシオンが大いに盛り上がっていた。ビクトルはビオレータ・パラとその中心的な役割を担うことになる。1967年ファースト・アルバム「ビクトル・ハラ」を発表、1969年にはチリ・カトリック大学主催の「新しい歌の祭典」で「耕す者への祈り」がグランプリを受賞し、ビクトルは歌手として一躍注目を浴びる。1970年にサルバドール・アジェンデが大統領に選出され、アジェンデ政権の理念がビクトルのそれと相通じていたこともあり、ビクトルは政府の「音楽大使」としてキューバをはじめとするラテンアメリカ諸国を歴訪した。その後も歌手、作曲家として数々の賞を受賞し、ビクトルは名実ともチリを代表する国民的英雄となる。


Quilapayún (con Victor Jara) - Plegaria a un labrador

 

 

 クーデター当日、ビクトルはアジェンデの呼びかけに従って、国立工科大学へと向かった。国立工科大学には、ラジオ放送を聞いてクーデターに抵抗しする数千人の学生や教員が集まっていた。しかしすぐに反乱軍によって大学は完全に包囲され、外部から遮断される。翌朝、反乱軍は戦車で大学内に突入し、抵抗した学生たちを殺し、残った人々全員を拘束、ビクトルもその中にいた。拘束された人々はサンティアゴ・スタジアムに収容された。

 収容所では反乱軍による容赦ない殺戮が始まった。死を待つ人々を慰めるため、ビクトルはギターを手に取り人民連合のテーマ曲である「ベンセレーモス(われわれは勝利する)」を歌い始めた。怒った反乱軍はビクトルを殴り倒し、ギターを取り上げる。するとビクトルは今度は手拍子で歌い始める。軍人たちは二度とギターを弾けないように彼の両手を銃の台尻で叩き潰す。それでもビクトルは歌うことを止めない。激怒した兵士たちは銃剣で彼の口元を切り裂き、背後から銃弾を浴びせた。

 ただこのエピソードは誇張されて流布されたきらいがあり、そもそも収容所に連行された時点でギターなど持ち込めるはずもない。実際は手拍子で「ベンセレーモス」を歌っていたところを兵士にスタジアムの地下に連行され、銃で殺害されたというのが事の真相のようである。

 クーデターから1週間ほどたった頃、死体収容所でビクトルの妻は夫の変わり果てた姿を発見する。それは「胸は穴だらけ」で「手首が異様な角度で腕からぶら下がっていた」という凄惨な光景だった。こうしてビクトルは40歳という若さで反乱軍により命を絶たれた。 


"Venceremos" for Chile

 ピノチェト独裁政権下、ビクトル・ハラの曲は禁止され、ヌエバ・カンシオンも強制的に終了となった。

 

 

 私が初めてビクトル・ハラを知ったのは大学4年生の時、今からちょうど31年前になる。当時フォルクローレのグループをやっていて、卒業するに当たり記念として国内最大のフォルクローレの祭典であるコスキン・エン・ハポンに出てみようということになり、出場することになった。

www.cosquin.jp 

 演奏する曲をどうするかで、できれば練習時間もあまりないので簡単な曲がいいと思案していたところ、メキシコからの帰国子女であるKが「いい曲がある」と紹介したのが、ビクトル・ハラの「平和に生きる権利」。この曲を初めて聞いたときは全身に衝撃が走ったような気分だった。

 「平和に生きる権利」はビクトル・ハラの代表曲の一つで、1971年4月に発表された。当時進行中だったベトナム戦争北ベトナムの指導者であったホー・チ・ミンを激励し、世界中の人々が皆「平和に生きる権利」があると訴えている。

 当時はスペイン語の意味は解らず、ホー・チ・ミンやナパームという言葉が「出ているので何となくベトナム戦争のことを歌っている左翼的な曲とは理解していたが、演奏した私を含め3名はノンポリで左翼的な思想は全く持ち合わせてはいなかった。そっち系の団体に間違えられたらどうしようと会場に向かうバスの中、メンバー同士で心配していたが、結局それは杞憂に終わった。


El derecho de vivir en Paz Victor Jara

  コスキン・エン・ハポンについては過去に何回か記事にしている。

kitajskaya.hatenablog.com

kitajskaya.hatenablog.com

kitajskaya.hatenablog.com

 

独裁者ピノチェトのその後

 

 1974年6月27日にピノチェトは大統領に就任し、アメリカやチリ国内の保守層や軍の支援を受け、1990年3月までの16年間、軍事政権を率いて強権政治を行った。ピノチェト政権の治安政策により人民連合をはじめとする多くの反体制派の人々が弾圧された。誘拐・投獄、拷問など何らかの形で人権侵害を受けた人々は10万人とも推定され、政治的、経済的な理由での亡命者は当時のチリ総人口の約10%の100万人に達したとされる。

 ピノチェトは経済政策においてアメリカのシカゴ学派に属するミルトン・フリードマンが提唱する新自由主義政策を忠実に実行し、政権奪取後の短期間には良好な経済成長を維持した。フリードマンはこれを「チリの奇跡」と言って称賛したが、ピノチェト政権の16年間の実質GDPの成長率は平均で3.70%、1975年と1982年にはマイナス10%台と恐慌に直面している。失業率も1975年の4.3%だったものが80年代平均で22.5%と上昇、ハイパーインフレも深刻だった。さすがにピノチェト政権もこうした経済的失墜により政策転換を余儀なくされ、1985年には新自由主義政策を放棄し、新自由主義の経済ブレーンを追い出し、ケインズのマクロ経済型の経済政策を実行し軌道修正を行った。結果1987年からの3年間のGNPは平均で8%を超える高い水準を記録した。結局のところ「チリの奇跡」は全くの虚構にしか過ぎなかった。

 1988年10月5日、翌年3月で任期満了を迎えるピノチェトの任期を更に8年間延長することの是非を問う国民投票が行われ、反対が56%、賛成が44%と反対が多数を占めた。1989年に大統領選挙が行われ、ピノチェト派の候補は敗北し、ピノチェトも任期1年延長する形で、1990年3月に大統領を辞任した。

 ピノチェトは、大統領を辞任した後も影響力を保持していたが、1998年に病気療養のために渡ったイギリスでスペイン司法当局の命を受け当時の内相がピノチェトを拘束・逮捕、最終的に病気で裁判に出るのは無理だと診断されたため釈放されたが、このことがピノチェトの権威を貶めることになった。翌2000年には、チリの市民団体がピノチェトを告発し、これを受けサンティアゴ高裁のファン・グスマン判事は殺人及び誘拐罪で起訴した。チリの高裁および最高裁ピノチェトに対する精神鑑定が行われていないことを理由に、起訴を一旦無効とした。その後もピノチェトに対する起訴が続いたが、健康上や痴呆などといった理由で亡くなるまでチリで裁かれることはなかった。

 2006年12月、ピノチェト心不全のためサンティアゴ市内の軍病院で死亡した。没年91歳だった。国葬をするかどうか政府内で揉めたが、国民感情を配慮して、当時の大統領ミシェル・バチチェレは、国葬ではなく元陸軍司令官として陸軍主催の形で行われ、葬儀には大統領ではなく、国防大臣が参列した。

 

現在のチリ

 

 政権移管後、初めて大統領に就任したのはキリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンであった。エイルウィンは市場原理主義の修正を図り、所得格差や貧困問題解決に取り組み、1994年には再びキリスト教民主党からエドゥアルド・フレイ・ルイスタグレが大統領に就任した。

 2000年にはチリ社会党からアジェンデ以来二人目の大統領としてリカルド・ラゴスが大統領に就任、2006年には再びチリ社会党からチリ史上初の女性大統領、ミシェル・バチチェレが誕生した。2代続く社会党政権の間、チリでは経済成長が続き、貧困対策で成果を上げている。続く大統領選では右派連合で実業家出身のセバスティアン・ピニョーラが大統領に、2014年には再びミシェル・バチチェレが大統領に就任している。

 民政移管後、ビクトル・ハラの音楽は解放され、同時にビクトルが虐殺されたスタジアムは「ビクトル・ハラ・スタジアム」と改名された。そして2009年12月にはミシェル・バチチェレ大統領の出席の下、虐殺から36年の時を経て、ビクトルの公式の葬儀が行われた。また2013年はサンディアゴの控訴裁判所はビクトル虐殺の真相を解明すべく、虐殺に関与したとされる軍人元8名に対して逮捕状を発行している。

 

 

おまけの音楽

 

トードス・フントス(邦題:みんな一緒に)」 

 ラテンアメリカの国々では知らない人がいないと言われている名曲で、日本では某左翼系の組織のテーマソングにもなっていたようです。ピノチェト政権ではこの曲の演奏は禁止されていました。学生時代にはこの曲も演奏しました。アルゼンチンのフォルクローレ・デュオ“クリスティーナとウーゴ”のバージョンだったと思います。

 改めて、というか実際は今回始めて、1973年当時この曲を演奏していたチリのグループ“ロス・ハイバス”を見ましたが、イメージとは違い、もろロックバンド!?フォルクローレにドラム、しかも女性ってありなの?


Festival de Viña 2011, Los Jaivas, Todos juntos

 

ルンルンは北に去った 

 ビクトル・ハラと同様に「ヌエバ・カンシオン」運動の中心的な歌手であるビオレータ・パラの代表曲の一つ。ルンルンとはチリの言葉で「ハチドリ」のことを指すそうです。この曲も学生時代に演奏しました。演奏も未熟でお粗末なグループでしたが、この曲だけは上手く演奏でき、内輪中止のコンサートではこの曲への拍手が一番大きかったことを覚えています。

 この時は曲名は「ルンルンは北に行った」で演奏していましたが、「行った」ではなく「去った」だったんですね。またビオレータ・パラではなく演奏をコピーしたのはホセ・ホセロ・マルセイロというグループでした。実はこの曲がビオレータのものだと分かったのは、このブログを書いているときでした。

 それにしても、この曲がYOU TUBEにあるとは思いませんでした。ちょっと感激しています。


Violeta Parra - Run run se fue pal norte 

 

ビクトル・ハラ、チリ・クーデターに関するCDおよび書籍

 

平和に生きる権利

平和に生きる権利

 
サンチャゴに雨が降る

サンチャゴに雨が降る

 

 

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 参照:Wikipedia チリ・クーデター、サルバドール・アジェンデビクトル・ハラ

         アウグスト・ピノチェトアメリカ同時多発テロ事件

         ヌエバ・カンシオン、平和に生きる権利、ビオレータ・パラ

         パブロ・ネルーダ、チリ

   八木啓代 禁じられた歌―ビクトル・ハラはなぜ死んだか 晶文社

   NAVER 著名人も殺害・・・アメリカが主導した『もうひとつの9.11』

         虐殺された人気歌手~ビクトル・ハラともう一つの9.11

   うたごえサークルおけら 「ルンルンは北に去った」

   ヒストリーチャンネル 特集「独裁者」ピノチェト~チリに君臨した独裁者~

   世界史の窓 チリ軍部クーデター

   文芸ジャンキー・パラダイス あの人の人生を知ろう~ビクトル・ハラ

   崎山政毅 ビクトル・ハラ「平和に生きる権利」ライナーノート

写真:無料写真AC イースター島のモアイたち n*******************m

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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