五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

受験生だった頃・・・

今週のお題「受験」

 1月も早いもので、あと1週間をきってしまいました。この間仕事で忙しく、また興味を引くものもないまま、ブログ記事も滞りがち、年初で公約(?)したブログ記事年間40も早くも赤信号が灯っています。大丈夫かな・・・!?

 

☆☆☆ この記事の目次 ☆☆☆

 

はじめに

  そんな中、はてなブログ今週のお題が「受験」(もう今週のお題ではなくなってしまいましたが・・・)、これなら何とか短時間に書けそうかなと思い、投稿してみようと考えました。(結局思ってから数日が経ってしまったことになりますけどね・・・!!)ただ内容としては自分の思い出話なので、申し訳ありませんが、とてつもなくもつまらないものであり、場合によっては不快感を感じられるかもしれないことををあらかじめご了承いただけたらと思います。

 

私と受験、大学受験について書いてみます

 

 私はこれまで50年近く生きてきましたが、広義の意味で「受験」したのは4回、高校受験が1回。大学受験が2回、これが受験と言われるとそうでもないかもしれませんが、就職の時に1回です。高校受験は大分の地元の高校を受験、これはたいした思い出はなく、また就職も「受験」と呼べるかはやはり疑問符が付くので、今回は2回行った大学受験の事を記してみようかと思います。

 私は大分県の高校の普通科の出身です。私が高校生の頃、かれこれ40年近く前になりますが、当時は今ほど大学に進学する人は多くありませんでした。私が通っていた高校の普通科は進学クラスがあり、東大九大九州大学の事です)をはじめとする難関国立大学に年に5,6名、地元の大分大学にも10数名ほど合格していました。今では大分でも私立の進学高ができたり、少子化の影響もあり、私が卒業した高校での国公立大学への進学者数はめっきり減ってしまい、大分大学に年2,3人程度する合格するかどうかという結果になっています。華々しいとは言えないまでも、かつての実績を知っている者としては、時代の趨勢とはいえ、やはりこれは寂しいことです。

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高校時代の受験体験、結果は玉砕!!

 

  私は大学進学を希望していたこともあり、何とか進学クラス(文系)に入ることは出来ましたが、高校に入学してからあまり、というかほとんど勉強をしなかったこともあり、成績はクラスでも底辺をうろついていました。これではいけないと高校2年生の夏くらいから一念発起して勉学に励むのですが、如何せんスタートが遅すぎ、また元来の怠け者気質、勉強するにもムラがありで結局、現役の時に受けた大学受験はものの見事に失敗、浪人生として予備校生活を余儀なくされることとなりました。

 今でいうセンター試験、私が高校生の頃は共通一次と言われており、私はその3期生に当たります。私は理数系が絶望的にダメで、数学は数Ⅰは何とはなく理解できたのですが、数ⅡBになってから理解不能になってしまってしまいました。数学より少しはマシですが、理科も同様でした。理科は生物と化学を履修、生物は平均以下でしたが、何とか他の人についていけるレベル、化学は数学と同じように高校2年生になってから訳が分からなくなってしまいました。逆に文系科目は得意だったかというとそうでもなく、国語はそこそこ、英語も同様でした。ただ社会は得意科目で、地理と世界史を選択しましたが、地理は学年でも上位レベル、世界史に至っては常に学年で1、2番とずば抜けてよい成績でした。 

 私は現役の時、中国地方の西の方にある某国立大学を受験しました。その大学を志望した理由が表向きは人文関係の学部で試験科目に数学がないことだったのですが、本音は出来るだけ高校の知り合いがいない大学に行きたかったのです。共通一次の成績は案の定悪く、特に数学、理科は平均点以下と散々な結果でした。このまま受験すれば、合格は難しく志望校変更を進められましたが、私は二次試験で挽回すると強硬姿勢を連ね、危惧する両親を何とか説得して、志望校の変更はせずに強行突破しました。ただ内心では受けても間違いなく落ちるだろうと思っていました。「共通一次に失敗しても、決して大学のレベルを下げない」という、あの頃も変なプライドがあったのだと思います。

 あの時は併願で東京と京都の私立大学を数校受験していて、実際はこちらの方が本命で、多分何校かは受かるだろうと甘い期待をしていました。しかし結果は滑り止めにと受けた1校を除き、あとは悉く不合格でした。大丈夫だろうと思っていた大学にも落ちてしまい、精神的にかなり落ち込んでいて、国立大学の本番試験には問題を解く気力も萎えてしまっていました。もっとも知り合いがあまりいないという私の期待に反してその年にその大学を受験したのは4名で、そのうち3名は女子。結果は私以外は全員合格しました。

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受験に失敗、北九州の予備校へ 耐久生活の日々

 

 当初は滑り止めに受けて合格した大学に行く予定だったのですが、いざ下宿を探しに行こうとした矢先、土壇場のところで、両親、特に父から「北九州市小倉にある予備校に行くけ。そして国立を目指せ!!」と厳命され、晴れて(?)浪人生となりました。私の両親は今でいう“毒親”で、世間体というものを気にし、私立でももう少し知名度ある大学か、国立をと考えていたと思い、また自分の子どもだけが国立に落ちたことの現実が許せなかったかもしれません。(実はそれ以外にも理由がありましたが・・・)

 北九州市での予備校生活では、今までにないくらい勉強をしました。それこそ寝食を忘れてという感じで。当時は大分から予備校まで通学するのは困難で、交通費と世間体を鑑み、予備校からバスで20分くらいのところに下宿することにしました。家賃と予備校の授業料は1年間分を前払い、仕送りは月1万円くらいだったと思います。この1万円で食事と風呂に行かなければなりませでした。

 実は下宿には賄いが付いており、今思えば若気の至りなのですが、6月くらいに下宿の寮母さんの料金の割にひどく手抜きをした献立に私を含めた下宿人たちが憤慨し、下宿での食事の改善を求め下宿人が食事をボイコットする騒ぎがあり、結局怒った寮母さんが今後一切食事は作らず、食堂の使用は禁止、前払いした食事代も一切返すつもりはない、と断言しました。

 結局のところ、翌々月くらいから賄のお金は払わなくて済むようになったのですが、当時は双子の弟も同じ予備校に通ったこともあり、両親としては金銭的には楽になったものの、やはり家計が苦しかったのは間違いなく、賄分のお金は振り込まれず、食事は月何回か小倉には親戚がいたのでそこにやっかいになるように言われたと思います。実はボイコットの件を正確に両親に伝えたかは今となっては不明で、多分こちらの都合のいいように伝えたのではないかなあ!?。両親としても、私たちの行動に対してはあまり怒ることはありませんでした。恐らく両親としては余計なトラブルを抱えたくなかったことと、寮母さんにあまりいい印象を持っておらず、結果として静観したのではないかと思われます。今となってはわかりませんが・・・。

 ちなみにボイコットの首謀者であったの佐賀出身の人たちで、彼らは実家が裕福であったのか、外食でも全く困らず、結構高いものを食べていたようです。またもともと進学校の出身なので、地頭と要領もよく、なおかつ容姿も端麗で、今でいう“イケメン”、彼らは勉強は二の次で、授業をそっちのけで小倉の町で遊んでいて、貧乏で勉強しかない私たちにとっては、はたから見ててとても羨ましかったことを憶えています。どこの大学に行ったかは当時でもわからなかったのですが、風の噂では、彼らの中で一番“イケメン”だったK君は東京で随分と女性関係がド派手だったようです。

 この騒動ですが、どういう訳か首謀者が私たち兄弟となっていました。そのため寮母さんからは「ドアの開け閉めがうるさい」だの「トイレの電気を消していない」だのと毎日のように難癖を付けられていました。途中寮母さんが健康の上の理由で下宿から退去されるのですが、「騒動から退去の原因はすべてあいつらだ!!」と捨てゼリフを残して出て行かれたので、私たちはかなり恨まれていたと思います。私たちは普段はおとなしく従順なのに、ボイコットの際に寮母さんの期待を裏切って、彼女に辛辣な言葉を投げかけたのが、彼女の逆鱗に触れたかもしれません。また当時は彼女は御年60歳を過ぎていて、「いい歳をして夜具に紫のスケスケのネグリジェを着ている」と陰で小馬鹿にしたことも一因だったのではないかと思います。

 風呂は、下宿の近くに銭湯があり、そこを利用しました。当時の値段として1回200円くらいで、確か髪を洗うときは別料金がとられていたのではないかなあ?髪を洗う料金を払わずにどうやって髪を洗うかを苦心していたような記憶があります。ただ実際は有名無実となっていて、シャンプーを持っていれば料金を払い、水で頭を流すくらいではお咎めなしだったと思います。銭湯へは金銭上の理由で3日に一度しか行けませんでした。ちなみに隠れて下着を持っていき、銭湯で洗ったこともあります。これは何とかばれずに済みました。この間下着は取り替えなかったし、洗濯物はほとんどなく、ある場合は多分小倉の親戚のうちに持っていったのだと思います。実のところ予備校生時代に洗濯をした記憶は、銭湯以外ではほとんどありません。

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予備校生時代の受験戦略をどうしたのか?

 

 ちょっと話は脱線しましたが、予備校では国公立文系コースで、正規の授業は午前中だけで、午後は空いた教室で自習をし、予備校の閉まる午後9時までいました。午後9時にはバスは運航していなかったので、小倉駅まで歩いて、そこから当時は路面電車が走っていたので、それに乗って帰りました。実際バスの定期代より、路面電車の定期代の方がかなり安く、浮いたお金を食費に回していました。

 下宿は2畳半の部屋で、机はおいてありましたが、狭くて布団が敷けなかったので、押し入れの扉を開けて、押し入れの下段に布団を押し込むような形で布団を敷いていました。勿論テレビなどはありません。テレビを持っている人もいましたが、元来人付き合いが悪く、またテレビを持っている人はボイコット騒動の時に土壇場で寮母さん側に寝返ったので、私にはその人に裏切り者のイメージがあり、あまりいい印象を持つことはありませんでした。下宿であっても会釈する程度でその人とは深く付き合うこともなく、もちろん部屋を訪ねるということなどありませんでした。そういう訳なので、予備校生活を送った1981年から1982年の春にかけてはテレビを見た記憶がほとんどなく、その頃にどのようなドラマが流行っていたかはわかりません。

 予備校での禁欲的な生活と勉強漬けの毎日で成績の方は何とか現役の時に受けた東京の私立の大学にはほぼ合格できるようなレベルにはなりましたが、私としては国立大学優先、現役の時受けた国立大学よりもワンランクアップの学校へと希望していたのですが、ネックとなるのが絶望的に酷い成績の数学と理科、2学期に行われた模試では数学は平均点以下でしたが、何とか半分は取れていました。しかし生物と化学では2割程度しか取れず、このままいけば、点数は去年とさほど変わらないか、下手したら去年を下回る結果になることが明らかでした。

 そこで一か八か考えたのは理科の選択科目変更。化学はいくら勉強しても理解するのが不可能なので、受験科目を地学に変更し、残された時間は2か月ですが、独学でやることに決めました。地学は高校の時には選択科目になく、教える先生も高校にはおらず、予備校にもこの講座はなかったか、あったとしても授業料として別途取られたかと思います。何故地学にしたかというと、子供のころから宇宙とか地球に興味があり、暗記が中心なので何とかなるという根拠のないものでした。勉強方法はただひたすら参考書を読むこと、重要と思われることをノートに書き写すこと。参考書を読み終わるとまた再度参考書を読み直し、重要と思われることをノートにまた書き写す。それだけのことを何回も何回も繰り返しました。

 迎えた翌年の共通一次、会場は北九州市戸畑区にある九州工業大学、あの日は晴れてはいましたが、かなり雪が積もっていたように覚えています。結果ですが、英語、社会、国語の文系3科目は前年をかなり上回る点数が取れました。理科ですが、生物は前年よりも少し点数が下がった程度でした。問題となった地学ですが、これは予想以上に高得点が取れ、平均点を遥かに超え、8割を超える近い正解率を得ることができました。ただ、数学が絶望的に悪く、散々な結果だった去年をも遥かに下回る成績、一応人文学系の学部を志望していましたが、この成績では二次試験に数学がない学校でもかなり不利になるので、今回はあっさりと志望校と志望する学部を変更し、南関東にある国立大学にターゲットを絞りました。

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果たして結果は吉と出たか?

 

 ちなみに共通一次の結果を知った日は、ショックで小倉駅に併設されていたショッピングモールのトイレで30分近く悔し涙を流しました。揚句に受験料を入れた封筒をなくす騒動を引き起こしたのですが、小倉駅の職員さん達まで巻き込んでのこの大騒動、幸い自分の勘違いもあり、封筒は無事に見つかり何とか事なきを得ました。

 2度目の受験生の時、実は両親は「国立がどうしても無理だったら私立でも仕方がない」と諦めていたようです。せめて現役の時に失敗した大学に受かればと。ただ私にも意地がありますので、東京にある私立大学で、かつ昨年失敗した大学より偏差値が高い大学を選び、現役の時に落ちた大学は受験しませんでした。幸い禁欲生活を送っていたことと宿泊先は東京の叔母のうちにやっかいになることで、お金を節約することができ、受験する学校も5,6校にすることができました。

 この時、あえて滑り止めを考えず、現状での自分の成績のレベルの学校かそれ以上にハイレベルの学校のみ受験しました。自信も根拠もなかったのですが、何故か全滅だったら時のことは一切頭にはありませんでしたし。受験した学校のどこかには入れるだろうという確信がありました。結果としては半々の成績でしたが、某有名私立大学では、絶望的にダメだった数学の問題があまりに易しく、得意だった世界史の試験問題が難しかったので、数学に変更して、奇跡的に合格しました。(その大学には結局は行きませんでしたが・・・)国立大学の方も何とか合格することができました。

 結局、私は学部との兼ね合いもあり、国立大学には行かず東京の私立の大学に行くことになりました。大学に入学しましたが、性格までも変わることはなく、せっかく苦労して入学しても、期待して思い描いていたような華やかなキャンパスライフとはいかず、大学4年間は地味で暗い生活を送りました。そしてその後の会社生活でも同様です。私の場合は大学に受かることが目的で、入ってから何をするかの目的が皆無であり、加えて性格の問題もあったことが自分の人生を振り返った今では問題だったと思います。

 

おわりに

 

 ただ、苦しかった予備校生の頃の思い出は今でも懐かしく思い出すことができます。後の人生があまりパーッとしなくても、私にとってこの時代が輝いて見えるのは、目標に向かって一途に行動していたからと思いますし、またこれが私の人生において唯一の成功体験だったからかもしれません。当時と同じことをやれと言っても無理だし、このような体験は他人にとっては無意味なことでもあり、人によっては全否定されるかもしれません。結果としてこの経験を後の人生に生かすことは叶いませんでしたが、自分としては青春時代の貴重な体験として心の片隅に刻んでおこうと思っています。

 

 

過去の記事より

 

kitajskaya.hatenablog.com

 

関連書籍

 

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お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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