五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

ふるさと

 お盆休みも終わり、ここ数日はすっかり秋めいてきました。まだ日中はエアコンが必要ですが、朝晩はめっきり涼しくなり、夜通しの稼働はなくなりました。あんなに暑かった寝苦しかった夜がまるで嘘のようで、精神的なストレスがない限りはぐっすり眠れるようになると思います。恐怖に怯える来月の電気代の明細ですが、これで少しは節減になったと思い、幾分かは安堵しております。

◆◆ この記事の目次 ◆◆

 

 

ふるさとは大分県

 

 さて今度の【特別お題】、私のふるさとですが、再三このブログでも紹介していますが、私は大分県北部国東半島の小さな田舎町で生まれ、高校卒業までそこで暮らしました。ですので私のふるさとは大分県だと言っていいと思います。

 国東半島は早くから仏教から栄えており、奈良時代から平安時代にかけて、仏教と古来からあった山岳信仰と近隣の宇佐八幡の八幡信仰と融合した「六郷満山文化(ろくごうまんざんぶんか)」と呼ばれる仏教文化が形成されました。六郷満山とは国東半島の中央部に位置する両子山(ふたごさん)の山麓にある、武蔵(むさし)、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ)の六つの(古代の行政単位)に築かれた寺院群(満山)のことをいい、今年は六郷満山の開祖と呼ばれている仁聞(にんもん)が718年に国東半島に寺院を建立してから1300年になるとされ、国東半島の各地でイベントなどが開催されています。

 

 

主な六郷満山の寺院群

 

 ここで少し六郷満山の寺院群を有名なところを紹介します。

 

 1.両子寺

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両子寺 山門

 両子寺(ふたごじ)は、両子山の中腹にあり、古くから修験道の場として栄えており、江戸時代には六郷満山を統括する立場にあったとされています。写真の山門の入り口に立つ仁王像は高さが2mを超える大型の像で、江戸時代後期の作品とされています。国東半島を代表する仁王像と言えます。また両子寺は子授けの寺としても知らてています。ただこうして紹介する私は、恥ずかしながらこの寺には行ったことはありまません。ですので、あまり詳しくは書けません。

 

2.熊野磨崖仏

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熊野磨崖仏 大日如来

   熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)は平安時代の後期に作られたとされる磨崖仏で、国の重要文化財に指定されています。磨崖仏は2体ありいずれも6メートルを超える巨大なものです。

 熊野磨崖仏へは良くサイクリングで行きました。ここを訪れてのは中学校くらいで、子供だったため、磨崖仏をただの“大きな石仏”だと思っただけで、大した感動はありませんでした。私が中学校時代を過ごした1970年代後半は、磨崖仏はそれほど世間には知られていませんでした。地元の人以外訪れる人はおらず、日曜日や祝日にここを訪れても閑散としていました。

 結婚して10数年ぶりに嫁の両親とともに磨崖仏を訪れたときに、その巨大さと岩に彫られたことに感動され、「こういう歴史的な遺産が残る街に生まれ育ったことを羨ましい」と言われ、その時初めて自分の生まれ育った街を誇らしく思いました。と同時に観光客、特に外国人の方も数多くいたことに驚きました。

 

3.真木大堂  

www.makiodo.jp

 真木大堂(まきのおおどう)には、国の重要文化財に指定されている木造の仏像が収められています。かつては六郷満山の中心的な寺院として隆盛を誇ったようですが、約700年前の火災に焼失したため詳細な資料が残っておらず、「幻の寺」と呼ばれています。実は私、恥ずかしながらこのことをこの記事を書いている時に知りました。前々からお堂におかれている仏像の割には、建物が少々貧弱だと不思議に思っていたのですが・・・。

 真木大堂は無料写真ACさんに写真が無かったので、リンク先を貼り付けました。安置されている仏像のなかでも、木造の不動明王立像は圧巻で高さは2m半あり、恐らく日本で一番大きい不動明王像だと言われています。この像は一見の価値はあります。子どもの頃は像の迫力に圧倒され、とにかく怖かったことを憶えています。

 

4.富貴寺

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富貴寺大堂

 富貴寺(ふきじ)は平安時代後期に宇佐神宮の司家によって創建されたました。写真の富貴寺大堂は九州最古の木造建造物で、宇治平等院鳳凰堂平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられており、1952年には国宝に指定されています。中学校や高校の教科書のなかには富貴寺のことは記載されているものもあるようです。

 私が子供の頃は周囲の大人たちから「富貴寺は釘を1本も使ってない」と教わりました。当時の建築様式も全く理解していなかったせいもあって、「すげぇ~」と驚嘆していました。

    富貴寺は小学校の頃に一度行ったきりで、よくは覚えていないのですが、大堂の中には極楽浄土を描いた壁紙があり、極彩色のそれは美しいものでした。ただ当時から劣化が激しかったので、入場制限とかをやっていたような気がします。また同じく大堂に鎮座する阿弥陀如来坐像も厳かな印象だったことを憶えています。

 

 5.宇佐神宮

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宇佐神宮 南中楼門


 宇佐神宮(うさじんぐう)は全国の約44000社ある八幡宮の総本社で、岩清水八幡筥崎宮(もしくは鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つです。宇佐神宮の創建は571年頃とされており、祭られている神様は、向かって左側の祭殿の一之御殿が八幡大神応神天皇)、中央の祭殿の二之に御殿が比売大神(ひめのおおかみ)、右側の三之御殿が神宮皇后です。通常は中央に主祭神が祭られることになっていますが、宇佐神宮主祭神とされる比売大神が何者であったのかはわかっておらず、一説によると卑弥呼ではないかと言われています。

     宇佐神宮へは3年間に大分に帰省した時に十数年ぶりにお参りに行きました。その時の記事がこちらです。

 

kitajskaya.hatenablog.com

 この記事にも書きましたが、宇佐神宮の参拝方法は他の神社と異なっており、一般的な神社はニ礼二拍手一礼ですが、宇佐神宮二礼四柏手一礼の形式をとります。これは島根県出雲大社新潟県弥彦神社だけだそうです。弥彦神社のことは詳しくはわかりませんが、私は出雲大社宇佐神宮は何らかの関連性があると思っています。宇佐神宮のある宇佐市邪馬台国のあったのではないかと言われている場所で、その北東の位置、即ち鬼門に出雲大社があります。これって何らかのメッセージではないのかなあ?

 

若かったあの頃

 

  いろいろと私のふるさとについて書いてきましたが、私がまだ国東半島の田舎町にいた高校生の時までは地元のことなどは全く無知で、国東半島が神仏習合の地だと気付いたのは結婚して、嫁の両親を私のふるさとに招待した時でした。そういうことだから、地元の歴史などは人に尋ねられても全くと言っていいほどわからず、却って今住んでいる藤枝市の歴史の方が詳しいと思います。まあ無知というより、この田舎町には自らのアイデンティティというものが感じられず、この街を知ろうとする意識そのものが無かったのでしょうね。

     高校生の頃の私はこの田舎町が嫌で、大都会東京に憧れました。元来人付き合いが苦手で、いつも最後は一人になってしまう自分。また田舎の特有のプライバシーのなさも嫌でした。周囲とうまく馴染むことができず、集団の中の孤独にも耐えきれずに、自分の現状に絶望して、一時も早く“憧れの都”、“夢の大東京”に逃げ出したかったと思います。

 家庭環境もあまり良好とは言えませんでした。私の両親はいわゆる“毒親”でとにかく学歴至上主義の人でした。さらにプライバシーまで干渉してくることにはほとほと閉口しました。中学・高校の時は両親から怒られていることしか印象に残っていません。家族団欒の食卓も、食事がすむとさっさと自分の部屋に引っ込んでいましたね。恐らくこの時期は両親の前では笑ったことはなかったと思います。

 田舎から逃げるように都会に行った私ですが、浪人してまで入った大学にも馴染むことができませんでした。相変わらずクラスではひとりぼっち、結局大学4年間でクラスで親しい友人を作ることができませんでした。ただサークルには小まめに顔を出していたこともあって、一応は居場所のようなものはありました。それが唯一の救いで、ここからはたまに同窓会の誘いがあります。

    大学生時代は親元を離れていたこともあって、口煩い両親がいない分、孤独に苦しむことを除けば、青春は謳歌できませんでしたが、学生生活は気ままでした。ただこのような性格ですから、当然のことながら、就職活動は苦難の連続でした。私自身が就職活動を甘く見たこともあって、同級生連中が次々と内定をもらう中。私はなかなか内定が取れずにいました。何とか滑り込んだ今の会社も私の実力よりも当時通っていた大学の知名度で採用されたと思います。もっともこんな私と「一緒に仕事をしたいと思う会社なんかあるほうがおかしい」と、今ではそう思います。

 

唱歌“ふるさと“の3番の歌詞には泣けてきます!!

 


【合唱曲】故郷(ふるさと) / 歌詞付き

 

 文部省の唱歌に“ふるさと”という歌があります。その3番の歌詞は、

こころざしを果たして
いつの日にか帰らん

山は青きふるさと

水は清きふるさと

  私はこの歌詞を聞くたびに泣きたくなる気持ちを抑えきれません。逃げるような形で親元を離れ東京に行った私ですが、それでも漠然とですが故郷に錦を飾りたいという願望はありました。ただ私の人間ととしての力量は乏しく、社会の荒波には防戦一方で、思うような成果を上げる事は出来ませんでした。出世も結婚も同期のなかでは一番遅く、浪費癖もあってなかなかお金を貯める事も叶わず、結果自分のマイホームも持つこともできませんでした。結局は会社のなかでは典型的な無能な人になってしまいました。

 詩人の三好達治の作品に「駱駝の瘤にまたがつて」という詩があります。その中のフレーズに

駱駝の瘤にまたがつて 貧しい毛布にくるまつて
かうしてはるばるやつてきた遠い地方の国々で
いつたいおれは何を見てきたことだらう

 私は忙しさにかまけて何を見なかったのか、もしくは見ようとしなかったのではなかったのか、そう思います。

    あと数年で定年を迎え、終の棲家がない私はこころざしを果たすことなく、年老いた両親を見るべく、大分の実家に帰ることになると思います。この事については忸怩たる思いがありますが、一つだけ誇れるものがあるとしたら、家庭を壊さなかったことだと思います。私が高校生だった頃よりかは遥かに健全な家族の団欒を作れたこと、それに尽きます。

 

おわりに

 

  私のふるさとについてグダグダと書いてきましたが、私の家族にとってのふるさとはどこだろうと考えました。嫁の場合は出生地が東京ですが、小学校から私と結婚するまでは神奈川県に住んでいたので、ふるさとは神奈川県になると思います。

 娘は東京で生まれ、幼少期を静岡県福島県とわたり、小学校の中学年で再び静岡にに戻ってきました。息子は静岡で生まれ、同様に幼少期を静岡県福島県とわたり、小学校の低学年で静岡に戻ってきました。ですのでやはり娘も息子も育った期間が一番長い静岡県がふるさとになると思います。子どもたちは2人とも大学進学を考えており、大学進学と同時に静岡から離れるかもしれません。例え静岡から離れるにしても、自分たちを育んでくれたこの静岡県のことを誇りに思い、これからの人生を歩んで行ってもらいたいです。

   

https://www.satofull.jp  

 

 

追伸:この記事は記事作成中に予約投稿ボタンを付けていましたが、途中で寝てしまったため下書き途中のまま記事を投稿してしましました。そのため再度編集し更新しましたので、最初に投稿したものと記事の趣旨が違っています。更新した記事は書くうちにだんだんと私の愚痴めいたものになってしまいました。記事を読まれて不愉快に思いをされたら誠に申し訳ありません。

 

参照:Wikipedia:国東半島、六郷満山、郷、仁聞、両子寺、

                真木大堂、富貴寺、宇佐神宮、故郷(唱歌

   昭和の町・豊後高田市公式観光サイト ぶんごたかだ 観光スポット&お店情報

          三好達治 駱駝の瘤にまたがつて

写真:無料写真素材 写真AC 両子寺 seama2

               磨崖仏 naonao.73

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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