五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

私にとって「平成」とは?

今週のお題「平成を振り返る」

 「平成」もあと2日で終わり、5月になれば「令和」が始まります。今週のお題ではなくなりましたが、新しい時代を迎えるに当たって、私も自分にとって「平成」とはどういう時代だったかを振り返ってみたいと思います。

 とはいっても大したものでもなく、自らのどうしようもない過去を綴るとてもつまらない記事となっていますし、内容もネガティブなものになっています。ですのでこのブログに興味が無い方はスルーして頂けたら幸いです。 

仕事

  

 私にとって「平成」の時代とは「仕事」に明け暮れていた時代と言えます。仕事に明け暮れたといえば聞こえがいいですが、実際は要領が悪く、ダラダラと時間を費やしている感じで、それは今現在も続いています。多分私は所謂世間一般でいう「無能な人」なんでしょうねえ・・・!?

    昭和64年1月7日、昭和天皇崩御された日、確か雨が降っていて、かなり寒かったように記憶しています。当時私は販売の仕事をしており、埼玉県の西武ライオンズの本拠地の近くのスーパーのテナントの店長として勤務していました。当時は寮に住んでいて、昭和天皇崩御のニュースを寮母さんから聞き、喪服か黒っぽいスーツを着て出勤したと思います。 翌1月8日、すなわち「平成」がスタートした日はほとんどスーパーが“自粛”という形でお休みになったのではないかなあ!?

 販売の仕事を21世紀になった平成12年度末までしました。その間の勤務先も神奈川・東京・埼玉の某所と5か所ほど変わりました。販売の仕事は人付き合いの苦手な私に合っている仕事とは言えず、またテナントのロケーションや人間関係によって業績がかなり左右しましたが、それでも業績が上がった時は達成感ややりがいを感じましたし、労働環境がいかにブラックであっても、ほかに何もすることがなかったこともあって、あまり苦にはなりませんでした。むしろブラックなことを自慢げに話していたような気がします。

   平成12年に子供が産まれたことをきっかけに、自分自身も将来についていろいろと考えることもあり、会社に職種の変更を願い出ました。そして職種の変更が受理され、21世紀になった平成13年に販売職から生産職へ、勤務地も首都圏のテナントの店舗から静岡の工場になりました。(希望していた職種は生産ではなく管理部門でしたが・・・。)

 生産の現場になり、販売の時とは違って土日祝日は基本的に休みとなり、体の方はかなり楽になりましたが、工場で働く社員は団体活動が基本で、関連する各部署との連携もあり、何よりも社員同士のつながりが密でした。工場では仲間意識が強く、「報告」「連絡」「相談」も徹底されていました。私は元来コミュニケーション能力が欠如しており、うまい具合に人間関係を構築することが出来ませんでした。また販売職時代はテナントへの勤務で仕事の裁量も割と自分に任されていたこともあり、団体行動をメインとする生産職の仕事の流儀(?)に慣れるのに苦労しました。

 また私は人一倍不器用で、単純作業が大の苦手、人が簡単だと思えることが出来ません。ですので生産現場に移って一月も経たないうちに「仕事ができない人」と見なされてしまい、周囲から冷たい視線に曝されることになりました。さらに年齢的に管理職を兼ねていたことあり、自分より年下の仕事のできる部下への対応に神経を擦り減らしていました。あの頃は自分に自信が持てずに随分卑屈になっていたと思います。

 生産の仕事に慣れて、卑屈にならずに何とか周りとコミュニケーションを取れるようになったのは平成22年ごろで、当時のブログに大滝秀治さんの言葉を引用して、自らを戒める形で記事にしています。

 

kitajskaya.hatenablog.com

   生産現場では平成17年春から平成21年春まで福島で勤務、平成21年から現在に至るまで再び静岡の工場で勤務しています。今でも「仕事ができない人」には変わりはありませんが、「仕事ができない人」なりに処世術と言いますか、組織での立ち回りを長年の経験則で学習し、今では組織の足手まといにならないようにそして自らのストレスが無いように上手く仕事をしています。もう年齢的に出世とかは無理なので、自分の得意分野で組織に貢献しようと思っていますし、人の上に立つことや目立つことを極力避け、仕事のメインは能力のある若手に譲り、自らは裏方に徹するようにしています。

    そもそも若い頃の私は明確な人生設計という事を全く考えておらず、ただ有名な大学に入れば何とかなると高をくくっていました。それに学生時代は恋愛経験も無く、またこれといった挫折も経験せずにのんべんだらりと生きてきました。そのため人生経験も乏しく、社会人になるための勉強も怠っていたと思います。就職した今の会社も希望したものではなく、散々就職活動をやってようやく拾ってもらった会社です。だから入社当初からやる気がなかったことは否めません。よく当時の上司から「もっとやる気を出せ!!」とか「真剣に仕事に向き合え!!」とか叱咤されていたことを思い出します。(それでも販売時代は売り上げの数字が伸びたときは達成感を感じていましたが・・・。)今思えば随分と「甘ちゃん」だったんですねえ!!

 ただ私の人生観や仕事のダメっぷりは傍から見て褒められたものではありませんが、これはこれでこれから就職する私の子供たちに私は反面教師としていい教材になったと考えています。

家庭

  

 私は平成7年10月に結婚し、このままいくと来年の令和2年10月には銀婚式を迎えることになります。平成12年にが、平成15年に息子が誕生しました。私にとって「平成」の時代は新しく「家庭」を築いた時代ともいえます。

 しかしこれまでの結婚生活が順風満帆だったわけではなく、むしろ長い間家庭内別居の状態が続いていました。夫婦生活がおかしくなった詳細はあまり書きたくはありませんが、静岡に転勤前の思いやりを欠いた言動が原因で、転勤してからはそれがますます口論が絶えないような状態となり、福島にいた最後の2年間は嫁とはほとんど口も利かない最悪な状態でした。静岡に再び転勤となった平成21年は息子の小学校入学と重なり、1年間は家族を福島に残し私一人が静岡で暮らす単身赴任の状態でした。平成22年に藤枝の今の住まいに家族一緒に住むようになり、平成26年に何とか夫婦間のわだかまりが解消しました。夫婦雪解けのきっかけは逆に思いやりのある言動でして、それ以降は多少の衝突はあるものの何とか良好な関係を維持しています。   

    この夫婦間の冷戦状態は子供の成長にも深く影を落としたようです。このブログでも何回か記事にしていますが、息子が幼いころに自閉症の気があると診断されてました。後々分かったことですが、私にも自閉症の気があったこともあり、この子がそうなったのは遺伝の影響もあったと思いますが、幼いころの家庭環境も多少は影響はあるようで、うちのような夫婦仲がよろしくない場合も子供のこころの成長を阻害する要因となりうるみたいです。

 そういえば私の実家も両親や同居していた祖父母とも家族仲は良くありませんでした。夕食の時など皆押し黙っているか、怒号が飛び交っているかのいずれかだったと記憶しています。家族団欒という雰囲気など皆無で、これも私が田舎を出たい理由の一つでした。こうした環境が私の自閉症気質と歪んだ性格を形成したのだと思います。

   そのため平成17年から平成27年の10年間は息子のケアを中心に生活をしました。医療機関によると「自閉症は完全に治ることはない」ようで、嫁は息子の自閉症の症状を少しでも改善すべく、足しげく発達障害者の支援施設に通い、何とか普通の幼稚園や小学校に通う事ができるまでなりました。ただ小学校に上がっても、大声を出したり、突然教室から出ていくといった問題行動もあった為、息子が低学年の時は嫁は毎日息子の学校に行き、息子を見守りました。

 嫁の献身な努力の甲斐もあったのか、またこの頃になってようやく夫婦の関係も改善したことに相まって、中学校に入るころには問題行動も落ち着き、特に嫁がわざわざ学校に出向かなくても大丈夫な状態に迄持っていくことが出来ました。これには学校関係者の理解も大きかったと思います。息子のような問題行動を起こす子は得てして学校内でいじめに遭ったりするのが普通のようですが、息子に限ってはそういったことは私の知る限りでは福島でも藤枝でもありませんでした。(クラスの子供同士の些細ないざこざはあったようですが)これは学校関係者の教育方針の賜であり、また息子の進路に関しても真摯に取り組んでくれました。本当に頭が下がる思いであり、ありがたく感謝しております。

 息子にはまだまだ上手く人間関係を築くことが出来なかったりと克服すべく多くの問題を抱えてはいますが、何とか私の中学高校の精神レベルには到達したように思います。

 さてこれを読まれている方は「きょうだい児」という言葉をご存知でしょうか?「きょうだい児」とは「病気や障害がある兄弟姉妹がいる人たち」の事を指します。「きょうだい児」たちは兄弟姉妹が病気や障害あることで特有な悩みを持ち、それを心に溜め込んで生活する人が少なくないそうで、最近では「きょうだい児」たちを支援する動きも出ているそうです。

 

www3.nhk.or.jp

 「きょうだい児」の定義からすれば、娘は「きょうだい児」といえます。ただ娘は息子が比較的浅い症状だったこと、中学校は別の学区に通わせたこと、嫁が息子に罹りっきりの時は私が面倒見たこともあり、娘は「きょうだい児」の抱える寂しさを感じることは少なかったと思います。ただ息子の問題行動には恥ずかしさを覚えていたようで、私には愚痴ることはありませんでしたが、嫁にはこっそりと話していたようですね。

 「きょうだい児」にはプラス面もあると思います。これはうちの娘に限ったことかもしれませんが、娘は自閉症の気がある児童や生徒の気持ちとか対処の仕方が分かっていてるようです。(もちろんすべての自閉症の子供とは限りませんが)これには学校の先生から大層驚かれてたり、褒められたりしていたようです。

 娘は今春に大学の教育系の学部に進学しました。この子は昔から子供の世話をするのが好きで、小さい子どもたちから慕われており、またそのお母さんから感謝の気持ちを伝えられたこともありました。娘に直接聞いたわけではありませんが、娘がこの進路を選択した理由の一つには息子のことがあったのではないかなあと思っています。

おわりに

 

  最後になりましたが、間もなく「令和」の時代が始まります。このまま行くと令和5年に私は定年を迎えることになります。定年後は今のところ実家のある大分県に帰り、両親の世話をすることを考えていますが、静岡に残り仕事をすることも選択肢にあります。また娘も順調にいくと同じく令和5年に社会人としてスタートすることになります。息子も大学に進学すれば令和7年に社会人となる予定です。

 いずれにせよ令和の時代は、子供たちが独立し家族が離れ離れになるステージとなります。そう考えると子供たちと一緒に暮らす時間は限られていることになります。改めて家族で一緒に過ごすことのできるこの限りある時間を大切にしていきたいと思います。

おまけ~平成の関連グッズです

 

平成ヒットパレード -再生回数億越えの平成ベスト50選-

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激動の平成 <日経 平成三部作>セット

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激動の平成史 (洋泉社MOOK)

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 参照:NHKラジオ Nらじ きょうのニュースぷらす 2019年4月26日放送 

                    【きょうだい児】障害のある兄弟への思い

イラスト:無料イラスト素材 イラストAC 

        平成☆新元号発表☆新年号 記者会見 TAKAPON

                       

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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