五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

3年に1度の藤枝大祭りがやってきた。

 10月になりました。ここ2,3日は台風の影響で藤枝市でも昼間は30℃を超える日が続いていますが、朝晩はめっきり涼しくなっており、エアコンを一晩中かけっぱしにしたあの夏の寝苦しさから解放され、今では安眠を貪っています。

はじめに

  さて今年は3年に1度の藤枝大祭りが開催される年、先週の金曜日から3日間の日程で開催されました。今回のお祭りは時代が令和に変わって初めてとなりますので、関係者の方々はより一層盛り上がり、お祭りのある街一帯は熱気に包まれています。この記事を書き始めた日曜の朝も、早くからお祭り特有の威勢のいい声が飛び込んできていました。

藤枝大祭りの歴史

  藤枝大祭りの起源は、江戸時代に田中城の鬼門を守る青山八幡宮の大祭に、東海道藤枝宿の屋台が神輿渡御(みこしとぎょ)の行列に付き合ったのが始まりとされ、約300年以上の歴史があるとされています。

 

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田中城下屋敷

 

 時代が明治に移り、1871年廃藩置県で、田中藩が消滅すると、藤枝宿の総社である飽波神社(あくなみじんじゃ)の大祭時にこの行事が行われるようになりました。飽波神社の大祭は、寅・巳・申・亥の年に施行され、現在ではこの大祭を「藤枝大祭り」と呼んでいます。

 

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飽波神社

 

 祭りの華である屋台ですが、元々は江戸でもっとも発展した「三層高覧欄型山車(さんそうこうらんがただし)」と唐破風屋根(からふやね)に「踊り舞台」が結合した独特な山車屋台で、その高さは9㍍を超える壮大なものでした。しかし電線や電話線の敷設により、三層高欄部分が引っ掛かるため、やむなく踊り舞台のみの屋台となりました。

    さらに大正時代になると、1916年当時長唄界で活躍していた、地元出身の芳村伊十郎(よしむら いじゅうろう 六世長唄家元)を迎え、現在のような長唄による地踊りを披露する形になりました。

藤枝大祭り参加14町と町印

  藤枝大祭りには旧藤枝宿9町と隣接の5町、合わせて14町が参加し、屋台を曳きます。途中で雨が降ってきたので、残念ながら参加した14町のすべての屋台を撮影できませんでしたが、昼間撮影できた屋台の写真を貼っておきます。

 最初はどの屋台の同じ造りかと思っていましたが、よく見ると門構えとか紋章などに個性が見られ、趣が感じられます。またお祭りに参加されたかたの半被とか衣装にも違いがみられました。

 

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栄区屋台(左)②木町区屋台(右)
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③五十海区屋台(左) ④原区屋台(右)
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⑤上伝馬区屋台(左) ⑥左車区屋台(右)
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⑦益津区屋台(左) ⑧市部区屋台(右)

  下の表は藤枝大祭りに参加した14の町と町印の由来をまとめたものです。意外だったのは岡出山地区のように割と新規に大祭りに参加した地区があったことには驚きました。

 

町名 町印名 印の由来
原(はら)区 花菱 花菱紋は昔より馴染みがあり、縁起のいい紋とされてきた。原の「は」にもじって原区の印として、提灯とに使われたとされているが、町印の詳しい由来は不明。
木町(きまち)区 キ印 瀬戸川付近に位置し、製材業者が集中したことから町名が生まれた。木町の「キ」を町印はデザインしている。
栄(さかえ)区 結び柏 大正時代に三地区が合併して栄区が成立した。三地区の和合と繁栄を願い、繁栄永続の象徴する柏の葉を三枚で構成される「結び柏」を選んだ。
小坂(こさか)区 菱小(ひしこ) 小坂の「小」を基にデザインをされている。大正時代に初めて飽波神社の大祭に参加した際に、当時の紺屋が、「菱小」の考案したのではないかと思われている。
上伝馬(かみでんま)区 分銅紋 上伝馬は問屋場と両替を行う藤枝宿の中心だった。幕府が定めた分銅「法馬」と上伝馬を掛けて、分銅馬とした。
益津(ましづ)区 三枡印 歌舞伎役者の市川団十郎の三枡紋をもとにデザインした。「隅立つ三つ入子枡」を町印に、すべての世代が力を合わせて大祭を施行しようという和合の心を表している。
岡出山(おかでやま)区 お組 1977年に初めて飽波大祭に参加した時に、区民にデザインを募集して作られた。岡・出・山の三文字をアレンジしている。
千歳(ちとせ)区 千歳の松 町名の由来となった八幡太郎義家の手植えの松と伝える「千歳の松」から、光琳松の家紋を基に考案された。
長楽寺(ちょうらくじ)区 長楽寺の「長」を「蝶」に掛けて、備前蝶とか鎧蝶紋と呼ばれる家紋を基に考案された。
白子(しらこ)区 菊一定紋 町印は長老が伊勢参りの途中、鈴鹿で目にして決めたとされる。
下伝馬(しもでんま)区 輪違い 江戸時代初期、酒井忠利が田中城の拡張工事を行い、大手口と下伝馬を設置した。町印は下伝馬の「馬」と酒井忠利の馬の轡(くつわ)を重ねて、二重の轡を基にデザインされた。
左車(さぐるま)区 源氏車 後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王が下向する途中に輿車の左輪が破損、その左輪を埋納した所が「左車神社」でこれが町名になっている。町印は町名の由来と源氏のみが将軍職に任じられることからとられている。
市部(いちべ)区 井桁 1950年に市部の横町・本市部・前原が合併して屋台を曳くことになった際、この機に市部の「い」の字を井型で象徴し、それを基にデザインした。
五十海(いかるみ)区 ご組 区のシンボルマークを募集した際、五十海の「五」と海と波をアレンジした作品を町印とした。

 

藤枝大祭りの見どころ①

 藤枝大祭りでは、長唄三味線囃子方のフルメンバーで、地踊りを披露します。長唄とは18世紀初めごろに生まれた歌舞伎の演奏音楽で、長唄で地踊りを披露する形態は、江戸時代に盛んでしたが、明治時代に急速に衰退し、今では東海道の旧宿場町、藤枝島田掛川にのみ継承されているようです。そのうち藤枝大祭りで披露される「長唄による地踊り」は規模と質において日本一と称されています。

 

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 屋台の中には長唄・三味線・囃子方など演奏されるそれぞれの楽器のプロ方が乗っています。

 

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 残念ながら飽波神社での奉納の地踊りは撮影できなかったので、2010年に五十海区が披露した写真を貼りました。

 

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 町内を屋台を曳きまわしながら地踊りが披露されます。

 

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 最終日の6日は生憎の雨となってしまいました。若干閉幕に時間は早まったようですが、それでも午後7時過ぎまではお祭りの威勢のいい掛け声が聞こえていました。

 

藤枝大祭りの見どころ②

  大祭りで曳きまわされる屋台は重さが約4t、それを人力によって操作します。屋台は左右に付けた約50㍍の引き縄で引っ張って進めます。

 

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 ただ屋台はまっすぐにしか進まない為、進行方向を変えるには梃子棒(てこぼう)と呼ばれる長さ10㍍、重さ800㌔の一本の丸い木で行います。

 

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梃子棒

 写真の左側、長く伸びた木の棒が梃子棒です。

 この梃子棒を使った屋台回しは迫力があり、大祭りの魅力の一つになっています。ただ私は今回これを見逃してしまったため、地元のSBS静岡放送のニュースが曳きまわしの映像を映していたので、こちらをご覧ください。

 


屋台のかじ取り豪快に てこ棒 3年に1度 藤枝大祭り

 

  屋台の方向を変えるには梃子棒によるものだけでなく、砲丸回しと呼ばれる方法もあります。飽波神社の鳥居をくぐった際には、長い梃子棒は使用できません。その際、砲丸投げで使う砲丸を備え付け台を入れて、それを屋台の下に取り付けて、屋台を回転させます。(残念ながらこちらも撮影できませんでした・・・。)

おわりに

  藤枝大祭りも最終日は雨に祟られましたが、盛況のもと終了したようです。ただ祭りの後の独特の感じで、ここ2,3日は何となく藤枝の町も寂しさに似た雰囲気が漂っています。

 次回の藤枝大祭りは2022年に開催されますが、その頃には多分私たち家族は藤枝にはいないと思います。ですので、今回の藤枝大祭りは見納めだと思います。ただ今回藤枝大祭りの事を調べてみると、やはり地域の力の凄さを感じました。伝統ある大祭りを絶やさぬよう頑張っている地域の長老や若い衆には頭が下がる思いがします。

 最後となりましたが、これからもこの藤枝大祭りが未来永劫に華やかさと勇ましさを兼ね備えたお祭りであることを切に願っております。

過去の記事から

  藤枝大祭りに関する過去の記事です。

kitajskaya.hatenablog.com

blog.goo.ne.jp

 

参照:日本一の長唄による地踊り 藤枝大祭りガイドブック

   広報ふじえだ 令和元年9月5日 日本一の長唄による地踊り 藤枝大祭り 

   長唄 三味線 杵勝会 長唄とは 長唄について

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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