五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

祝!弥次さん喜多さん、駿州の旅 日本遺産認定③ ~藤枝宿編~

 7月もあと少しで終わろうとしています。相も変わらず巷では新型コロナウイルスの感染拡大が続いています。先日にはついに今まで感染者がいなかった岩手県でも初めての感染者が発見され、全国の1日の感染者数も1000人を超えたと発表されています。もはや全国どこでも誰でもが感染のリスクに晒されているといっても過言ではないと思います。

 静岡県内を見ても29日には御殿場市焼津市で、30日にも島田市で新たに感染者が発見され、これで県内の感染者は20市6町272人となっており、1ヶ月前と比べ感染者数は約3.5倍となっています。

 今、日本のみならず世界は新型コロナウイルスの感染拡大防止と経済活動の再開という難しい問題と直面しています。引き続きマスクの着用と手洗いの励行を徹底するとともに、特効薬としてのワクチンの早期の開発が待たれるばかりです。
 

◆◆ この記事の目次 ◆◆

はじめに

 

 前置きが長くなりましたが、今回は「祝!弥次さん喜多さん、駿州の旅 日本遺産認定」の第3弾、藤枝宿編となります。

 おさらいとして、ストーリーを構成する文化財一覧を再度掲載します。今回の解説するのは28~32となります。 

  構成文化財の名称 ジャンル 五十三次宿
1 蒲原宿 史跡 蒲原
2 旧和泉屋(お休み処) 史跡 蒲原
3 志田家住宅主屋 史跡 蒲原
4 由比宿 史跡 由比
5 静岡市東海道広重美術館 所蔵の浮世絵 美術工芸品 由比
6 間の宿西倉沢 史跡 由比
7 東海道の名主の館(小池家住宅) 史跡 由比
8 薩埵峠 名勝 由比
9 清見 史跡 興津
10 三保松原 名勝 江尻
11 江尻宿名物 追分羊羹 名産 江尻
12 府中宿(駿府九十六ヶ町) 史跡 府中
13 府中宿名物 安倍川餅 名産 府中
14 丸子宿名物 とろろ汁 名物 鞠子
15 丁子屋 史跡・名物 鞠子
16 慶龍寺 史跡 鞠子
17 間の宿宇津ノ谷 史跡 鞠子
18 十団子 文化・風習 鞠子
19 東海道宇津ノ谷峠越 史跡 鞠子
20 明治宇津ノ谷隧道 史跡 鞠子
21 蔦の細道 史跡・名勝 鞠子
22 坂下地蔵堂 史跡 鞠子
23 蘿径記碑 史跡 鞠子
24 十石坂観音堂 史跡 岡部
25 岡部宿大旅籠柏屋 史跡 岡部
26 岡部宿本陣址 史跡 岡部
27 東海道松並木(内谷地区) 史跡・名勝 岡部
28 史跡田中城下屋敷 史跡 藤枝
29 大慶寺 久遠の松 史跡・名勝 藤枝
30 飽波神社大祭の奉納踊り 文化・風習 藤枝
31 瀬戸の染飯 名産 藤枝
32 東海道松並木(上青島地区) 史跡・名勝 藤枝

 

藤枝宿とは

 

  藤枝宿は東海道22番目の宿場町で、藤枝が歴代の城主が江戸幕府の要職を占める田中城の城下町でもあり、またの産地であった遠江国相良(さがら)に続く田沼街道の分岐点として、最盛期には旅籠数が37あり、商業地として栄えました。

 ちなみに田沼街道の名前は、江戸時代の中期に遠江国相良藩の藩主に任命され、相良城の築城を任命された田沼意次が、相良城から東海道藤枝宿までの街道を整備したことに由来しています。

 

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藤枝宿跡

 

28.史跡田中城下屋敷

 

  田中城(たなかじょう)は1537年に駿河今川氏の命を受け、この地の豪族である一色信茂が築城したとされています。その頃は「徳一色城(とくのいっしきじょう)」と呼ばれていました。その後1570年に武田信玄がこの城を攻略、武田家の家臣馬場信春によって、全く新しい城に改築し名前も「田中城」に改め、同じく武田家の家臣である山県昌景が入城し、三河の徳川家へ城塞として重要視されていました。 

 

f:id:Kitajskaya:20200731211120j:plain 本丸櫓(ほんまるやぐら)

 

f:id:Kitajskaya:20200731211253j:plain 冠木門(かぶきもん)



 武田信玄死後、息子の武田勝頼長篠・設楽が原の戦いに敗れた後、1582年に徳川勢によって攻められ開城しますが、田中城は難攻不落の城だったようで、この城が開城するまで8年余りかかっています。理由としては、別名「亀城」と呼ばれる由来となる直径600㍍の同心円状に3重の堀を巡らす武田氏流の築城方法もさることながら、この辺りが戦の妨げになる湿地帯だったことが挙げられています。

 

f:id:Kitajskaya:20200731213940j:plain 田中城下

 

 江戸時代になると、酒井忠利が藩主となり、この地を治めました。酒井忠利が川越に転出した後は徳川家康が藩主となっています。以降のちに幕府の要職を担うことになる松平氏、水野氏、北条氏が藩主となり、最終的には本多氏が廃城まで藩主となっています。なお徳川家康1616年1月に田中城に立ち寄った際に食べた鯛の天ぷらが家康の死因になったとされる説もあります。

 明治の代となり、田中城は廃城となり、今ではその面影が城の南東にあったこの下屋敷(しもやしき)に残されています。江戸時代の後期には築山、泉水、茶屋などがあって四季を通じて景観よかったそうです。時の流れとともにその姿も変わっていき、近隣河川の改修などで下屋敷跡は昔の半分ほどの面積となってしまいました。

 

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茶室(左) 庭園(右)

 藤枝市では1987年に田中城跡の保存整備事業が始まり、1992年から下屋敷跡で庭園の復元をするとともに、田中城ゆかりの建物を移築・復元していき、1996年に史跡田中城下屋敷が誕生しました。

 史跡田中城下屋敷は過去にも記事にしています。

kitajskaya.hatenablog.com

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29.大慶寺 久遠の松

 

 大慶寺(だいけいじ)は、藤枝宿の中心にあり、江戸時代には田中城の祈願所となって栄えたそうです。大慶寺は1253年、日蓮上人比叡山延暦寺への修行を終えて故郷の安房の国に帰る途中にここ藤枝の地を訪れた際に、日蓮上人の説法に教化された道円・妙円夫妻が建立した法華堂が起源とされています。

 

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大慶寺

 大慶寺のシンボルとされる久遠の松(くおんのまつ)と呼ばれる松は樹齢750年とされる巨木です。法華経に教化された道円・妙円夫妻が日蓮上人との別れを惜しんだ際に、日蓮上人が1本の松を植えていった逸話があります。「久遠の松」という名前の由来は、法華経の「久遠劫」という言葉からきており、未来永久に仏の教えが栄えるように祈念したことからだとされています。

 久遠の松は高さ25m、枝張り27m、根回り7mあり、静岡県の天然記念物に指定されており、日本名松百選にも入っています。

 

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久遠の松

 大慶寺 久遠の松も過去の記事にあります。 

kitajskaya.hatenablog.com

30.飽波神社大祭りの奉納踊り

 

 飽波神社(あくなみじんじゃ)藤枝市では一番大きな神社で、志太地方藤枝市焼津市島田市の一部)では最も歴史が古く、古墳時代仁徳天皇治世の時代の316年に創設された由緒ある神社です。

 

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飽波神社

 「飽波」という地名は、昔は湧波(わくなみ)と言われており、近くを流れる瀬戸川の伏流水が山裾の石の周りから水がこんこんと湧き出て来て、人々を疫病や災難から護ってくれたことに由来するそうです。ご祭神である少彦名命(すくなひこなのみこと)は、瀬戸川の水害から生活を守ってくれる川関大明神ともたたえられており、この社殿の土をいただくと洪水を免れるという信仰がありました。

 戦国時代に永禄・元亀の合戦で武田軍の乱入を招き、社殿は焼失しましたが、1715年に現在の藤枝市岡出山に社殿が再建されました。地元では「あくなみさん」と呼ばれ、開運厄除のほか、サッカー上達祈願などでも有名です。

 飽波神社では3年に1回、長唄・三味線・囃子方の演奏で地踊りを披露し、藤枝宿内を中心に14地区の屋台の勇壮に曳き回す「藤枝大祭り」が盛大に催されます。このお祭りは江戸時代の藤枝宿場町の祭礼にルーツを持つとされ、明治時代以降に現在の形式が定着しました。飽波神社の境内でも踊りが奉納され、「飽波神社大祭の奉納踊り」として市の無形民俗文化財にも指定されています。

 

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飽波神社大祭の奉納踊り

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屋台


 飽波神社と藤枝大祭りも過去の記事にあります。

kitajskaya.hatenablog.com

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31.瀬戸の染飯

 

  瀬戸の染飯(せとのそめいい)は藤枝宿と島田宿の中間、瀬戸(現在の藤枝市の内瀬戸(うちせと)から上青島(かみあおじま)辺り)の立場(たてば)で戦国時代から売られていた街道名物です。立場とは宿場と宿場の間に休憩場所として設けられたものを指します。立場には茶店などが設けられており、「峠の茶屋」も立場の一種とされています。

 瀬戸の染飯とは糯米(もちごめ)を蒸した強飯(こわいい)を梔子(くちなし)で黄色く染めて干したものです。この地域では昔から黄色く染めた染飯を晴れの日に食べていました。乾燥した梔子の実は消炎・解熱などに効果があるとされた漢方薬として知られており、東海道を行き交う旅人にとって、この付近は西に大井川、東には宇津ノ谷峠と街道の難所を控えていることから、疲労回復の食べ物として評判が良かったそうです。 

 

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瀬戸の染飯

  

 「東海道中膝栗毛」では「焼き物の名にあう瀬戸の名物は さてこそ米も染め付けにして」と紹介されており、物語では弥次さん、喜多さんはこの立場で藤枝宿であった親父さんに御馳走になるつもりで豪勢に飲食しますが、親父さんが厠に行ったきり戻ってこず、結局自分たちと親父さんの飲み食いの分全額を支払うことになっています。

  瀬戸染飯も以前の記事に書いています。

kitajskaya.hatenablog.com

 

32.東海道松並木(上青島地区)

 

 瀬戸の立場から少し西に行った上青島(かみあおじま)地区には約150mに渡り松並木が残されていて、こちらも内谷地区と同様に江戸時代以降も松を植えて街道の景観を守り伝えたそうです。

 

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おわりに

 

 今回の記事は、以前書いた記事を使い回したため、字数が4000字を超えたにも関わらず約2時間ちょっとで書き上げることが出来ました。普段だとこの字数では12時間以上かかるのですが、今回は割とスピーディにできました。

 次回は岡部宿の隣の鞠子宿の構成文化財について記述したいと思います。鞠子宿も今回と同様に以前の記事の使いまわしになると思いますが、東海道の史跡に興味がある方は読んで頂けたら幸いです。

 

参照:Wikipedia:藤枝宿、 田沼街道、相良藩、田中城、大慶寺(藤枝市)、

                志太郡、飽波神社(藤枝市)、立場

   藤枝市 令和2年日本遺産に認定されました 構成文化財一覧

        藤枝スタイル 藤枝大祭り

   ふじえだ東海道まちあるき 田中城下屋敷、大慶寺 久遠の松、飽波神社 

      戦国時代から続く街道名物『瀬戸の染飯(せとのそめいい)』、

      藤枝宿と田中城、立場 、旧東海道の松並木(上青島地区)

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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