今週のお題「修学旅行の思い出」
東海地方も梅雨に入ったようです。これは平年よりも2日ほど早く、昨年では15日も早いとか。これから鬱陶しい日々が続くと思うと少し憂鬱です。
◆◆ この記事の目次 ◆◆
はじめに
さて今回も記事にするネタがないので、今週のお題から記事を書くことにしました。これも記事数の目標40の達成のためですが、私自身が何だか意地になって投稿しているようですね!?
修学旅行については以前にも記事に書いてはいます。ちょうど娘の中学校の修学旅行の時で、修学旅行先の京都での自由行動の相談に乗っていた時でした。
この記事にも書いていますが、大分県の北部出身の私は修学旅行の行先は、小学校は北九州市の関門大橋と下関、中学校の時は関西(京都、奈良が中心)、高校は東京(途中信州)でした。ただ見出しのタイトルにも書きましたが、修学旅行を振り返ってみても、私はあまり思い出と言えるモノはありません。ですので、とてつもなくつまらない文章になると思います。まるで小学生の絵日記のような(小学生には失礼ですね・・・!!)まあそういう風に記事を書いていけば、忘れかけていた思い出が甦るかもしれませんし、少しはましな文章になってくるかもしれません。(自己満足に過ぎませんが・・・。)
小学校の修学旅行先は北九州市と下関市
小学校の修学旅行の事ととなると、今から44年前になります。1974年、ちょうどオイルショックの年で、連日テレビはトイレットペーパーの買占めのニュースで賑わっていましたね。もう半世紀近く前なので、修学旅行を何月に行ったかは詳しいことは忘れてしまいましたが、多分4月か5月だったと記憶しております。行先は関門大橋と下関市、1泊2日で下関の旅館に泊まったことは覚えています。
すっかり忘れてしまっていましたが、関門大橋ができたのが私が修学旅行に行く前の年の1973年11月。当時は東洋一の吊り橋としてその名を轟かせていました。
うろ覚えの記憶だと、関門海峡はバスで渡り、下関の方から橋の下にある関門トンネルを歩いて、山口県と福岡県の県境まで行ったように思います。あと北九州市側の関門海峡を望む和布刈公園(めかりこうえん)で何かをやったような・・・?
中学校の修学旅行先は関西地方
中学校の修学旅行は、関西方面でした。行きは北九州の苅田港からフェリーで船中泊し、翌朝に大阪南港に着くというものでした。今は瀬戸内海に大きな吊り橋がかかっていますが、私が修学旅行に行った1976年は橋などはありませんでした。朝の7時くらいだったでしょうか、朝起きて甲板に行くと、淡路島が至近距離にあったことが印象的でした。
そこから三重県の鈴鹿サーキットへ行きました。鈴鹿サーキットのことは残念ながら思い出すことはできません。行ったことは記憶にあるのですが、何を見たのかはどうしてもわかりませんでした。
それから順番は忘れましたが、奈良・京都を見物しました。奈良は東大寺に奈良の大仏を見に、そこで鹿を見たような気がします。それともそして鹿で有名な奈良公園に行ったのかなあ?こちらも記憶は定かではありません。
京都で行ったのは、二条城、金閣寺、清水寺です。他にも何箇所か行ったかもしれませんが、場所を憶えているのはこの3つです。
京都では、清水寺の近くで宿をとっていたと思います。この宿でちょっとした行き違いから当時好きだった女の子を深く傷つけてしまいました。すぐに謝ればいいものを、勇気がなかったのか、私は彼女に結局謝ることなく故郷を出て行ってしまいました。時折ですが当時のことを思い起こすことがあり、ほろ苦いものを感じます。高校を卒業してから彼女とは会っていません。若い頃の黒木瞳さんを髣髴させるような二重瞼が印象的な可愛らしい女の子でしたが、今頃どうしているのでしょうかねえ・・・!?
修学旅行の帰りは新幹線だったと思います。新大阪か京都で新幹線に乗って、小倉駅で新幹線を降り、在来線の特急列車(各駅だったかな?)に乗り換えました。この時どういう訳か私は同級生のU君と列車の運転席に乗りました。その列車が満員だったと思われるのですが、席が取れず座れずにいたら、心優しい運転手さんが声をかけてくれて、運転席に座らせてくれました。大体20分くらいで、席が空いたらすぐに車両に戻りました。さすがに操作機器までは触らしてはもらえませんでしたが、色々と列車の仕組みとか走行方法など、知らなかった事を教えてもらい、U君ともども感激しました。
今考えたら、運転手さんの行為はトンデモナイことですが、1970年代はまだおおらかな時代だったんですね。当時は引率の先生や両親にもそのことを話しており、運転手さんや当時の国鉄の方が非難されることはありませんでした。むしろ「よかったねえ!!ちゃんとありがとうって言った?」と運転手さんの気遣いに感謝をしていたようです。
高校の修学旅行先は信州から東京
高校の修学旅行の思い出はあまりなく、ただどこそこに行ったという機械的な記憶(?)しかありません。実は高校の修学旅行はどうしても行きたくなく、日程が近づくにつれて「病気にならないかなあ!!事故にでも巻き込まれないかなあ!!」と真剣に思っていました。当時は高校に行っても話し相手がおらず、いつも教室でぽつんとしていました。皆が楽しそうに話しているのに、その輪に入ることができず、集団の中の孤独、所謂、言葉は変かもしれませんが、所謂“賑やかな孤独”に悩んでいました。だから集団での活動では、思いっきり浮きまくるだろうという恐怖心から修学旅行を回避したいと切望していました。
でもそんな思いは虚しく修学旅行に参加することになるのですが、高校は中学校と逆で、行きの移動手段を思い出せません。バスではなかったので新幹線で名古屋まで行ったと思います。 高校で修学旅行に出かけた年は1979年(私の記憶ではどういう訳か1978年と1979年のものはあまりありません。)
まず訪れたのは、妻籠・馬籠でした。ただここの記憶はほとんどありません。それから松本城に行き、松本で宿泊したと思います。松本城は何とはなくですが、覚えています。松本城は黒い城で、今まで黒い城を間近で見たことがなかったので印象的でした。
東京は全体で何か所か観光したと思うのですが、あまり記憶にはありません。ただ1日はグループでの集団活動、高校の時は誰も友だちがいなかったので、双子の弟に懇願して、東京に住んでいる叔母に東京を案内するようにしてもらいました。その時に訪れた場所はすっかり忘れましたが、雷門と渋谷駅の忠犬ハチ公の像だけは何故だか覚えています。また生まれて初めて地下鉄に乗ったのもこの時だと思います。
高校の修学旅行の帰りは、東京から名古屋までバスで行き、名古屋港から大分港まで船で20時間かけて帰るというものでした。中学校の時の修学旅行の行きも船旅、その時少し酔ったので心配でした。東京見物をさせてくれた叔母は心配して、ウイスキーの小瓶を渡して、「気分が悪いときには飲め」と薦めてくれましたが、さすがにそれはNG!!「見つかったら停学になる」と言って丁重にお断りしました。
名古屋からの船旅は揺れが激しく、ご他聞に漏れず気持ち悪くなり、大概は船室で寝ていたと思います。夜の8時くらいに名古屋を出港して、翌日の夕方6時に大分に着きましたが、22時間も船に乗っていると、これは私だけかもしれませんが、感覚が違ってくるのですね。大分に帰っても、足元が揺れている感覚が2日間くらい続きました。
おわりに
小・中・高の修学旅行の事を書いてきましたが、記事の構成が思い出よりも単なる記録の綴りとなってしまったのは、いかにも人付き合いが苦手な私らしい結末となってしまいました。ただそんな私を反面教師にしてか、子供たちは修学旅行の団体行動は割とスムーズに行ったようです。それはそれでいいことですが、少し羨ましいなあと思います。所謂“ジェラシー”ってやつですかね?子供に嫉妬しても仕方はないのですが・・・。
写真:無料写真素材 写真AC フェリー アイコねえさん
日本の100名城(二条城) みのやん
金閣寺、渋谷 ハチ公 acworks
妻籠宿 OFF
浅草寺の雷門 魚鬼
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