五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

いつも何して遊んでたっけ? ~ 普通の人には理解し難い私の「ひとり遊び」の変遷 ~

今週のお題「何して遊んだ?」

 5月もあと少しで終わろうとしています。ここ数日は私の住んでいる静岡県藤枝市でもめいて来ていて、日差しが強くなっており、昼間に外にいると汗💦ばんできたりします。そういえば先先日は余りの蒸し暑さに、今年初めてエアコンを点けました。また蒸し暑い季節が来る、特に今年はエネルギー不足による‟電気代の高騰”が予想されるので、今から頭が痛いです・・・。

 さて今回の記事ですが、今回は今週のお題、実際は先週のお題ですが、「何して遊んだ?」について書いてみようかと思います。多分これだったら、何とか書けるかなあって思ったので・・・。

 子供の頃から、今もそうですが、私は人付き合いが苦手でしかも手先が不器用なことや運動神経がすこぶる悪いことも手伝って、あまりというか、ほとんど友達はいませんでした。それでも生まれ育ったのが九州の田舎だったせいか、遊びに誘ってくれる相手は若干いて、昭和の子供たちが遊んだごっこ缶蹴りの類のことはやりました。ただ先程書いたように、手先が不器用なので、独楽回し凧揚げ面子竹馬などは子供の頃はできませんでした。(それらができるようになったのは子どもが産まれ、子どもが幼稚園とか小学校になった頃でした。)

 それに輪をかける形ですが、私の両親、特に母親はいわゆる‟毒親”で、子どもをコントロールしがちで、夕方5時くらいに家で誰かと遊んでいても機嫌が悪くなり、すぐに帰れとかちょっとでも帰りが遅くなると、ヒステリックに怒られたものでした。

 ですので、自然と家に籠る様になり、必然的に一人でいわゆる「ひとり遊び」が主流となりました。ただ私には双子の弟がいたので、「ふたり遊び」と言った方がいいかもしれませんんが・・・。結果、幼少期の家庭環境が影響して、私の‟引き籠り人生”のようなものが完成したとも言っても過言ではないでしょうかねえ!?

 それで子供の頃は何をやっていたかというと、当時は地図が好きで、地図を見るのが極上の喜びだったこともあり、想像上の‟架空の国”を作り、その国の形を想像してノート📒に記入し、行政区分も作り、人口や面積なども統計年鑑のように記載しました。またその国に鉄道🚝や高速道路🚙、空港を配置し、特に鉄道に関しては時刻表も作ったと思います。また山脈や河川、港湾に至るまで事細かに記載しました。

 確か小学生頃に祖母からぬいぐるみを作ってもらいました。ただそのぬいぐるみで人形遊びをするわけでもなく、あくまでも観賞用として。どうして人形を作ってくれとせがんだのは忘れてしまいましたが、後にそのぬいぐるみと気に入った我楽多などで架空の家族を作り、そこから発展して、‟架空の学園生活”を妄想して、遊んでいたりもしました。

 特に私は高校野球が好きだったので、ぬいぐるみや我楽多に名前を付けて‟架空の兄弟”とし、それをもとに‟架空の高校”を作り、架空の甲子園トーナメント表を書いたりしていました。そしてそれが発展した形で、‟架空の国”とリンクする形で、その中の政治体制や芸能界などの想像し、遊んだりもしましたね。

 これは弟も同じで、弟が作った‟架空の国”と交流をしたりして、これを小学校から中学校にかけ、休みの日には一日中楽しんでいました。ただ弟は私が必要以上に干渉することとクラスでもキーマン的な存在なので、私ほどは嵌んなかったかったんじゃないかな!?

 さすがにこれは高校生くらいになると、受験勉強🖊で忙しくなったので、この‟架空の国”遊びは終焉となりました。ただあの頃のことは最近でもよく思い出すことがあり、さすがにノート📒とかには書きませんが、数時間は妄想にふけることは今でもあります。

 この時期に初期のウルトラシリーズの再放送が始まり、今度は弟と朝日ソノラマから出ていたウルトラシリーズの書籍を購入して、受験勉強の合間を縫って、蘊蓄を話し合ったりました。ちょうど高校の就学旅行ウルトラセブンの放送と重なった時は本気で修学旅行をさぼろうとも思いました。(結局ギリギリで放送時間には間に合いましたが・・・。)

 弟とは大学進学を機に離れ離れになりましたが、大学に入学しても、人付き合いの苦手は克服できず、よく言われる人脈の構築はできずじまいに終わりました。特に入学当初は学校や下宿になじめず、休日になると私鉄沿線や国鉄を乗り継いで、知らない街を訪問し、あてどもなく歩くのが日課となりました。特に観光するわけではなく、ただその街に行って帰るだけ。これが遊びとは言えるかどうかはわかりませんが、あの頃は休日になって、どこか知らない街へ行くのが楽しみで仕方がありませんでした。

 大学も2年生頃になると、下宿生活になれて、下宿に住んでいる学生さんたちとうまく付き合えるようになり、休日・平日を問わず、彼ら、私以外は4年生と留年した人で年上でしたが、とつるむようになりました。世田谷区深沢にあったこの下宿には、私と同じ大学の学生が3人いて、いろいろと学校のことを教わり、それと同時に必要単位以外はほとんど学校には行かなくなりました。

 そこでは毎日、彼らとフォークギターを弾いたり、世田谷区のテニスコートを借りて、テニス🎾をしました。私は凄く運動音痴なので、最初に断りを入れて、大半は見るだけでしたが、たまにプレーをすることもあり、結局ラリーは上手くいかなかったけど楽しかったです。

 そういえば、私は運動神経が悪かったので、子供の頃は野球とかサッカースポーツの類は滅多なことでは誘われなかったのですが、中学1年の時、同じクラスの子に卓球場を持っている子がいて、どういう訳か私にも毎週、卓球🏓に誘われました。ですが何度も言うように、私は運動がからっきしダメなので、ラリーが全く続かず、周りから白い目で見られ、嫌な思いをしました。何回か誘われても、結局上手くならなかったので、途中からは誘われなくなりましたが、今でも卓球場を見るとあの時のことを思い出して、気が滅入ります。トラウマのなのでしょうか?ただ不思議とテレビ📺で放送される分は大丈夫です。

 そうこうするうちに社会人になりましたが、社会人になっても、一人は変わらず、休日はほぼ一人で過ごしました。さすがに知らない街巡りは、仕事で疲れ切っていたので出来ず、休日はほとんど部屋でテレビを見て過ごす日々でした。

 社会人になって、しばらくするとキャバクラ遊びに誘われるようになりましたが、私はこれが嫌で嫌で仕方がありませんでした。そもそも人付き合いが苦手なので、女性ともうまく話すことが出来ず、お金💰を取られるだけ。キャバ嬢もそれを見越しているのか、端から私なんか相手をせず、ただ「黙って金を払え!!」という態度をとられてしまいました。だから私にとってキャバクラは「金を払って、相手にご機嫌をとる」場所に過ぎず、結婚を機に誘わることはなくなりましたが、誘われたとしても二度と行くことはないと思います。

 あとギャンブルですが、私はギャンブルといった賭け事に夢中になる体質ではないようです。そもそもが、ギャンブルに夢中になる人を理解できません。よく「勝つか負けるかの緊張感がいい」と言われますが、私には何を言ってるのだろうと不思議な感覚に陥ります。でもギャンブルをしない割にはお金が溜まらないが不思議です。

 最後に現状ですが、今はパソコン💻のゲームに夢中です。私が唯一ハマったゲームであるマイクロソフト社の歴史シュミレーションゲーム、エイジ・オブ・エンパイアシリーズは、Windows10や11で使える復刻版が出てから、プレイするようになり、飽きたり、ステージをクリアできるまでプレイしています。

 

kitajskaya.hatenablog.com

 ざっと私の「ひとり遊び」の変遷を書いてみましたが、やはり幼少期の「ひとり遊び」は常人には理解はしがたいと思います。残念ながらこの遊びで想像力が豊かになったりしたことはありません。でも思うに潜在意識の中では、現実世界ではダメ🙅でも想像上の世界では人と繋がっていたかったのではないかと、今考えるとそう思います。

 

 

写真:無料写真素材 写真AC 山積みの本 エイミーミック

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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