2020年も松の内を過ぎ、巷には普段と変わらぬ喧騒が戻ってきました。この冬は暖冬のようで、例年だとこの時期は朝起きるのが辛いほど寒いのですが、今季はそのようなことはなく、先日など上着がいらぬくらい暖かさ!!それに雨風が強く、秋の台風シーズンを思い起こしてしまいました。私たちの住むこの地球も年々深刻となる環境破壊の影響からか、あちこちで悲鳴を上げているかもしれませんね!!
◆◆◆この記事の目次◆◆◆
はじめに
さて私は今年度は町内会の役員をやっています。役員と言ってもそれほど大層なものではなく、1年ごとに町内に住んでいれば順番が回ってきます。仕事といえば、町内会費の徴収、公園の草むしり、町内の敬老会の手伝い、地域の防災訓練の引率などがあり、まあ言ってみれば“便利屋”といったところでしょうか。そんな役員の仕事の中で、「広報ふじえだ」の各家庭への配布というものがあり、最新版の1月5日のモノに以下のような見出しが躍っていました。
藤枝の新星 紅林弘太郎さん プロ野球の世界へ
紅林弘太郎選手は藤枝駅の近くの青島中学出身で、藤枝市出身のプロ野球選手は紅林選手で5人目とのことです。そこで今回の記事は知られざる(?)藤枝市出身の5人のプロ野球選手に焦点を当ててみたいと思います。
紅林弘太郎 選手とは?
紅林弘太郎選手は藤枝市の青島(あおじま)中学校の出身です。私の娘の1こ下、息子より1こ上になります。はじめにでも書きましたが、青島中は藤枝駅の近くにあり、この地域は利便性も良いため、青島小・青島中は藤枝市でもっとも児童・生徒の数が多く、青島中では生徒数は800人くらいになるそうです。(今は少し減ったかもしれませんが・・・)青島中のロケーションが藤枝駅の近くなので、ひょっとしたら私は紅林選手に会ったことがあるかもしれませんね!?
紅林選手は小学校2年生のころから野球を始め、青島中時代は1番ショートとして活躍し、進学した静岡市の駿河総合高校では1年生の夏からベンチ入りし、県大会では5番ショートとして出場しました。以降は常にクリーンナップとして打線の中軸を担い、2年秋には静岡県中部地区大会で優勝、昨年の夏の全国高校野球甲子園大会静岡県大会の決勝で静岡高校に3-2と惜しくも敗れ、甲子園出場を逃しました。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
駿河総合 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
静岡 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | ☓ | 3 |
紅林選手は186㌢、79㌔の長身の大型内野手。恵まれた体格を生かし、長打力には定評があり高校通算40本塁打を記録しています。期待の逸材として、早々からプロも注目しており、侍ジャパンU-18代表候補に選ばれております。昨年4月には代表候補の合宿で星稜高校の奥川投手から長打を放っています。紅林選手、すらっとした長身の体型から、何処となく巨人の坂本 勇人選手を髣髴させます。
紅林選手は2019年のドラフト会議でオリックスから2位指名を受け、契約金6000万円、年俸720万円(いずれも推定)で仮契約を結びました。背番号は「24」に決まり、紅林選手は会見で「『24といえば紅林』と言われるように頑張りたい」と抱負を語りました。
オリックスでは今季、チームの内野陣で若手の抜擢が進んでいて、プロ1年目の若手にも1軍での出場機会が増えているようです。紅林選手にも十分1年目から活躍する素地があります。ただプロの一員としてやっていくのに、慣れないことや戸惑うこともあるでしょうし、怪我の心配もあります。ただそうした艱難辛苦を乗り越えて、紅林選手には将来はオリックスの看板選手となってもらいたいと、一藤枝市民として期待しています。
藤枝市出身のプロ野球選手
紅林選手は藤枝市出身の5人目のプロ野球選手と紹介しましたが、紅林選手以前の4人のプロ野球選手はどういった人たちだったんでしょうか?ちょっとネットで調べてみました。その結果が下の表です。
氏名 | 出身小中(藤枝) | 最終学歴 | 入団年 | 所属球団 | ポジション |
紅林 弘太郎 | 青島中学 | 駿河総合高校 | 2019年 | オリックス | 内野手 |
黒田 祐輔 | 岡部中学 | 静岡高校→駒澤大学(中退) | 2007年 | 阪神 | 外野手 |
牧田 勝吾 | 高洲中学 | 島田商業→愛知学院大 | 2001年 | オリックス | 内野手 |
赤堀 元之 | 青島中学 | 静岡高校 | 1988年 | 近鉄 | 投手 |
村松 幸雄 | 藤枝小 | 掛川中学 | 1939年 | 中日 | 投手 |
藤枝市出身のプロ野球選手、紅林選手を除く4人についての書いてみたいと思います。
黒田 祐輔 選手とは?
黒田 祐輔 選手は元阪神の外野手。藤枝市でも2009年に合併した旧岡部町の出身です。旧岡部町は日本有数の玉露の産地として知られており、サッカー元日本代表で“ゴン中山”の愛称を持つ中山 雅史選手の出身地としても有名です。
黒田選手は静岡高校から東都の名門“駒澤大学”に進学しています。静岡高校時代は一塁手兼投手として夏の甲子園にも出場しています。駒沢大に進学したのも同大学の名監督である太田 誠さんからの熱心な進めだったと言われています。ただ駒沢大では思うような結果が残せず、中退。その素質を惜しんで、静岡高校の監督であった畑田 裕視さんの声掛けで、同校のグラウンドで練習、と同時に地元のシャンソン化粧品の契約社員として入社。午前中は会社員として働き、午後は高校で後輩達と練習で汗を流す、そのような二束草鞋を履いた苦労人でした。
2007年に阪神から大学生・社会人ドラフト4巡目で指名、投手として入団しています。ただ投手として1軍登録をすることができず、2011年より外野手として選手登録されました。その後ウェスタンリーグでは出場の機会はありましたが、結局捗々しい成績を上げることは出来ず、1軍登録をすることなく2013年に引退しています。
黒田選手は野球を断念せざるを得なくなった状況でも誰かしらが救いの手を差し伸べていることから、その素質には余人を魅了するものがあったと思います。192㌢・82㌔と体型的に恵まれており、指導者や野球環境に恵まれいれば、いわゆる“未完の大器”で終わらなかったと思います。考えてみると非常に惜しまれる選手だったと私は思います。
牧田 勝吾 選手とは?
牧田 勝吾選手は元オリックスの内野手。藤枝市南部の振興住宅街にある高洲中学の出身です。島田商業から愛知学院大学に進学、高校時代の詳細な情報は見つかりませんでしたが、大学時代は愛知大学野球リーグで2回優勝し、牧田選手はベストナインに3回選出されています。大学卒業後は社会人野球の名門“日本通運”に入社、強打の内野手として、都市対抗野球でも華々しい活躍をされています。
2001年にオリックスにドラフト11巡目で指名され入団、翌年には9月から三塁手として先発出場しています。牧田選手は強肩が持ち味で、内野ならどこでも守れるユーティリティプレイヤーでした。ただ入団した時の年齢が29歳と遅く、そうした年齢的なハンディもあって、2軍では好成績を残すものの、1軍登録されてもなかなか出場機会には恵まれませんでした。2008年に現役を引退。プロ野球界には7年間所属し、91試合に出場し、通算打率は.232でした。
その後フロント入りし、オリックス球団のスカウトとして活躍されています。昨年オリックスで活躍した新人の中川 圭太選手は牧田さんが指名に携わっておられるようです。先に述べた紅林選手の項にYOU TUBEの動画を貼り付けましたが、紅林選手の右隣にいるのが牧田さんです。何処となく威厳のある佇まいと言葉の節々に重みがあるのが私の印象です。これからもスカウトとして、将来のオリックスを背負って立つ若者を発掘してもらいたいと思います。
赤堀 元之 選手とは?
赤堀 元之選手は、私たちの世代では誰もが知っている近鉄の「守護神」としてチームの勝利に大きく貢献した偉大な投手です。まさかこのような有名な選手が藤枝市の出身とは思いもよりませんでした。
赤堀選手も前述の紅林選手と同じ藤枝駅近くの青島中学の出身。小学校4年生から野球を始め、進学した静岡高校では2年生だった1987年の夏に全国高校野球甲子園大会に静岡県代表として出場しています。
1988年にドラフト4位で近鉄に投手として入団。翌89年に1軍初登板、90年から中継ぎ投手として徐々に試合に出場する機会が増えました。91年の開幕から同僚の吉井 理人選手とともにストッパーに任されることとなり、92年には最優秀救援投手と最優秀防御率のタイトルを獲得しています。
その後2004年に引退するまで380試合に登板し、通算成績は58勝45敗139セーブ、通算防御率は2.88、と輝かしい成績を残しています。最優秀防御率1回、最優秀救援投手5回のタイトルを獲得、最優秀救援投手の5回は江夏 豊さん、佐々木 主浩さんと並ぶ最多タイ記録となっています。また月間MVP1回、今はもうありませんが最優秀救援投手に贈られていたファイアマン賞も5回受賞されています。また1996年には史上9人目となる100セーブを記録しています。
赤堀さんは並外れた制球力があり、球速150㌔を超える速球を軸に、そこから繰り出す高速スライダーやシュートを巧みに分けて投げていたような印象があります。また当時はフォークボールを投げないストッパーとして活躍されていました。またあのイチロー選手には滅法強く、25打数4安打、通算打率.160に抑えていました。名実ともに近鉄史上最強のストッパーだったと言えます!!
赤堀さんは現役を引退した後は、オリックスのコーチ、韓国のSKワイバーンズのコーチを経て、独立リーグの新潟アルビレックスBCの監督に就任、2015年には新潟はリーグ優勝しています。その後は東京ヤクルトのコーチに就任された後、昨年からは中日で1軍の投手コーチをされています。赤堀さんが就任されてから中日のリリーフ陣の防御率が大幅に向上されたようです。やはり一流と呼ばれる人に教わるとでは違うものがあるのでしょうねえ!!
村松 幸雄 選手とは
村松 幸雄選手は今の中日の前身となる名古屋軍の投手として活躍された方で、村松さんは前述した赤堀さんに匹敵する、いやそれ以上の大投手でした。
村松さんは藤枝小学校出身、中日新聞の記事から自宅近くの蓮華寺池でランニングをしていたから、生家はひょっとしたら私の住んでいる町内の近所だったかもしれません。野球好きの父や兄の影響から、幼いころより野球に親しんだ村松さん、小学校5年生の頃には170㌢あったとされ、「藤枝に快速球児あり」と言われていたそうです。
1934年に甲子園大会出場をめざし、掛川中学(現在の掛川西高、ここも静岡高校と並ぶ県内屈指の進学校で、野球も甲子園に春4回、夏5回出場しています。)に入学、1938年に4番で主将として甲子園大会に出場しますが、香川県の坂出商業に2-0で敗れました。
1939年にプロ野球の名古屋軍に入団、プロ3年間89試合に登板し、38勝26敗、うち40完投9完封、通算防御率は1.26と破格の成績です。特に2年目のシーズンでは21勝を挙げ、打撃の神様と言われた川上 哲治さんを三振に取るほどの御速球を持ち、名実ともに名古屋軍のエースとしての活躍が期待されていました。
しかしここに戦争の影が・・・・。1941年11月の職業野球東西対抗戦が最後のマウンドとなり、よく42年2月に召集され、44年7月にグアム島で24歳の若さで戦死されています。戦前のプロ野球で活躍し、戦後はプロ野球の監督やコーチをした坪内道典さんによれば、「もし生きていれば戦後はチームのエースとして投げまくっていただろう」と村松さんを惜しむ言葉を述べられています。村松さんが付けていた背番号は「18」。村松さんの雄姿を惜しみ、戦後は1948年まで誰もその背番号を付けることはなかったそうです。
東京ドームには太平洋戦争で戦死されたプロ野球選手の功績を称えるために鎮魂の碑が建立されていますが、刻まれた73名の中に村松さんの名前もあります。
おわりに
最後となりましたが、“サッカーのまち”として知られる藤枝市も意外とプロ野球選手も輩出していました。ただ藤枝市出身のプロサッカー選手は男女現役引退を合わせて32名いました。さすがサッカーのまちとしての面目躍如と行ったところでしょうか?スポーツ界もそうですが、今年は藤枝市出身者があらゆる分野で活躍する年になってもらいたいと、その思いを胸に、広報ふじえだを各戸に配りました。
参照:広報ふじえだ 令和元年度 1月5日号
日刊スポーツ 2019年11月12日付
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