五つの池の喫茶店

私が日々思っている事を徒然なるままに書き綴ってみました。興味のある方はお立ち寄りください。OCN CAFEに2004年9月から記載された日記をOCN Blog人に引き継ぎ、さらにこのHatenaBlogに移設いたしました。

見果てぬ夢を追えば ~満州国は‟まほろば“~

今週のお題「行きたい国・行った国」

◆◆◆この記事の目次◆◆◆ 

はじめに

 

 今まで海外へは3回ほど行ったことがあります。1995年のニュージーランドを皮切りに、1996年にハワイ、そして1997年に台湾へ。ニュージーランドへは新婚旅行、ハワイは会社絡みの旅行、そして台湾は義両親が現地法人で働いており、そこに招待されました。またこの時は私の田舎の両親も義両親から招待(彼らにとっては多分これが初めての海外旅行だったと思います。)され、更に旅行中は常に運転手兼ガイドが付きのVIP待遇、しかも宿泊施設🏨は豪勢で、それはそれは思い出に残る大旅行(大名旅行?)👜となりました。

 ちなみに海外旅行はそれっきりで、私は今に至るまで日本🗾の外には出ていませんし、後の人生で恐らくもう海外旅行に行くことはないんじゃないかと思います。自分自身、それほど海外へは行きたいと思わないし、むしろ国内の、今まで行ったことのない都道府県に行ってみたい。そもそもこれから先の長い長い老後を考えると、悲しいかな海外旅行いや国内旅行にすら行けるほどのお金の余裕はないでしょうねえ・・・。

 

行きたくても行けない国

 

 そんな私でも、行けるなら行きたい国があります。ただ物理的に見ても絶対に行くことが出来ません。タイムマシーンでもない限りね・・・。

 その国の名は満州国。かつて日本が満州事変により、現在の中国東北3省及び内蒙古熱河省を領土とした日本の傀儡国家。満州国は「満・日・蒙・漢・朝」の五族協和による王道楽土をスローガンにし、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を皇帝に頂き、日本の関東軍の主導の下、1932年に建国した日本の傀儡国家でした。

 満州国の人口は最盛期で約4400万人、うち在満の日本人は約82万人でした。満州国の面積は130万㎡と日本の面積の約3倍、首都は新京で、政治形態は民主共和制を執り、国家元首愛新覚羅溥儀がなり、行政の首班である国務総理をはじめ各大臣には満州族で占められていましたが、実質は関東軍司令官の下、要職は日本人が掌握していました。

 満州国は1945年8月に日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍の侵攻により崩壊し、日本の敗戦とともに「解体」が宣言されました。建国からわずか13年でその名が世界地図から消えてしまいまった「幻の国家」でした。

 

満州国国旗

 

ブログIDの由来

 

 ちなみにこのブログのIDであるキタヰスカヤは、満州の中心都市だった哈爾浜の代表する歴史的な大通りである中央大街、ロシア統治時代は「中国人街(ロシア語でキタイスカヤ)」と呼ばれていたことから、その名前の響きから自分なりに良かったので採用しました。ただ「イ」の文字だけ「ヰ」にしたのはその方が格好いいかなあと思ったからです。

 哈爾浜市内を流れる松花江まで美しい石畳の道が続く中央大街は、現在でもロシア統治時代の建築物が数多く残っており、夜はライトアップされ、哈爾浜隋一のショッピング街として賑わっております。松花江沿いには欧州風のルネッサンス様式やバロック様式の建物が数多く並び、そのロマンティックな雰囲気から「東方のパリ」とも称されています。

 当時のキタイスカヤ通り、街の看板は日本語・満州語・ロシア語で表記されており、エキゾチックで洒落たお店が多かったようです。街にはロシアの花売り娘もいて、ロシア料理をはじめ日本食・中華・洋食などありとあらゆる世界の料理が楽しめるレストラン街もあり、この通りは国際情緒豊かな魅力的な街でした。

 

ハルビン 中央大街(旧キタイスカヤ)

 

私の中国観の変遷

 

 私が満州国に興味を持ったのは学生時代に読んだ「地球の歩き方 中国」という本でした。当時の私は大学生で、また地元が九州・大分で大分市が中国の湖北省武漢姉妹都市を提携したこともあって、中国にはどことなく親近感を感じていました。またこの頃(1980年代前半)より大学生を中心に異国に一人で旅立つ若いバックパッカーが話題になり始めた頃だと思います。
 当時読んだ「地球の歩き方 中国」では中国・東北地方は巻末でしかも余り量が多くありませんでしたが、主要都市である大連瀋陽長春哈爾浜吉林斉斉哈爾などの都市は掲載されており、どことなく異彩を放つエキゾチックな感じの建築群と冬季は氷点下の気候となる北国に憧憬の念もあり、気が付けば中国・東北地方とその前身である満州国の虜になっていました。

 

 

 大学では3,4年の頃はゼミも中国関係の教授のところに入りました。尤も入っていきなり後悔するほどゼミ員のレベルは高かったのですが・・・。

 そして卒業旅行👜に中国東北部に一人旅行に行くと決め、ゼミの勉強と並行し、3年の夏くらいからバイトに励んで軍資金💰を貯め込んでいたのですが、当時のゼミ長の人から執拗に中国へ団体で行こうと懇願されており、なかなかその‟一緒に行こう攻撃”を抑えることが出来きませんでした。

 結局何とか撃退はしたものの予定されたバイトができずに軍資金はたまらず、結局中国・東北地方へ行くはずの卒業旅行は、何故か行き先が八丈島になってしまいました。冬の、しかも男一人旅のリゾート地巡りはそれはそれは惨めでした・・・。
 それから社会人となり、段々と中国・中国人の本質が分かるようになり(前々から中国に対するモヤモヤ感はありましたが)、中国への親近感が急激に冷めてきており、それが1989年6月に起きた天安門事件で決定的となりました。それ以外にも福沢諭吉脱亜論の影響もありました。以降私の中国に対するスタンスは変わりません。それは「決して信用してはいけない」というものです。

 

何故、満州国なのか?

 

 中国に関しては嫌悪感が高まる一方ですが、満州国についてはますます憧憬の念が強くなってきました。それはこれから述べるであろう満州国の先進性とそれを僅かな年月で世界一近代的な国家に造り上げた先人たちへの驚嘆と尊敬の気持ちがあったからです。

 それは学生時代に読んだ「都市ヨコハマをつくる」の影響もあり、都市計画とか所謂‟まちづくり”に興味が湧いていたこともあります。これは余談ですが、私は将来、都市開発とか再開発といった分野に進もうかと考えていましたが、東京ディズニーリゾートを作った人の話を読んで、その人の豪傑さや人間性の大きさと自分自身を比較して、私は事務能力や問題解決能力の低さ、人間性にあまりにも乖離があったため、健闘する以前にその夢を諦めていました。

 

 

 満州国について当初はアジアの最貧国というイメージしかありませんでした。それというのも私が高校生くらいの1978年に日中平和友好条約が結ばれ、それとともに中国残留孤児の問題がちらほら出かけた時期でした。中国残留孤児のニュースが出るたびにみすぼらしい服装と現在の中国東北部の映像がTV📺から流されており、そこには赤茶けて地平線まで延々と続く荒涼たる大地が映されており、かつて栄華を誇った近代国家の面影などは微塵もありませんでした。

 大学生となり上京した後、前述した地球の歩き方を見て、満州国に触発され、当時の状況を詳しく書いた書籍📖や写真集を見て、自分の考えが間違っていることに気付き、また当時の最先端都市大連では下水道や温調設備も完備されたと知り、実は1970年代後半から1980年代前半にかけての私の田舎より、当時の大連の方がはるかに近代的な生活をしていた事実に驚嘆してしまいました。

 また写真からみる満州国の建築物も美的なセンスに溢れており、何より首都新京は先進的な都市計画の概念に基づき、豊かな緑の下に道路や公園といった社会資本が充実した近代都市で、現在の日本においても実現が困難なことを当時の満州国は達成しています。

 1930年代からの世界の混乱期にまるで線香花火のように儚く燃え尽きた満州国、その儚さゆえに私の心の中に俄然関心が高待っていき、それは40年以上過ぎた今でも私の心の中に憧憬として残っています。

 旧満州国の遺産を訪れるために、現在の中国東北部へ行きたいという気持ちは少しはあります。ただ現在の中国の治安状態や中国人の気質を考えると、中国東北部への訪問はさすがに無理です。例えは違うかもしれませんが、私には過去の思い出は美しいままに取っておきたいという気持ちがどこか心の根底にあるようです。

 

サザンオールスターズ「流れる雲を追いかけて」について

 

 サザンオールスターズが1982年に発表した5枚目のアルバム「NUDE MAN」の中に「流れる雲を追いかけて」という曲があります。この曲、満州の当時の情景をうまく表現しており、ヴォーカルは原由子さんで通常のサザンオールスターズのポップ・アップの曲とは異なり、緩やかな大陸調のテンポで悲しげで当時を回顧するように歌い上げており、このアルバムに収められた他のどの曲とは違って異彩を放っています。これを最初に聴いた時に「ほんとにサザンの曲!?」と吃驚したことを覚えています。

 

 

 この曲、何となくかつて満州に住んでいた婦人が戦地に赴き帰ってこない夫を想ったり、もしくは日本に引き揚げた満州帰りの婦人が華やかだった昔を懐かしむ唄だと思っていました。しかしこの曲、実は当時話題となっていた中国残留孤児をテーマにした政治色が強い唄だったことが、この記事を書くために調べていて新たにわかりました。

 ただ私観ですが、この「流れる雲を追いかけて」という曲は孤児というよりはむしろ残留邦人の方がイメージとして湧いてきますし、私には歌詞の中にあるという政治色というのはどうしても感じられませんでした。むしろ私にとっては政治色などない昔を懐かしむ哀愁唄として心の残る楽曲の一つとなっています。

 また曲の感じからして作詞・作曲はてっきり原由子さんと思っていましたが、まさかの桑田佳祐さんでした。何でも桑田さんのお父さんは幼少期から青年期を満州国の大連で過ごされていて、戦後も大連のことを忘れずに同窓会にもよく顔を出していたそうです。満州について、桑田さんがお父さんからどういう影響を受けたのかはわかりませんが、ひょっとしたらこの曲は、満洲時代を懐かしむ桑田さんのお父さんがイメージの根底にあったのではないでしょうかねえ。

 

大連 連鎖商店街

 

 ところで、この曲の中に「連鎖の街」というフレーズが出てきますが、これは1929年に当時日本の租借地だった大連に当時では破格の200万円を投じて建設された各種小売店を一丸として大デパートを目的とした連鎖商店街を指します。約3万㎡の敷地に鉄筋コンクリート造りの店舗兼住宅が文字通りチェーンのようにつながっているからその名前が付けられました。

 当時の連鎖商店街には衣料品から日用品を含め、カメラ・時計・レコードや喫茶店☕、映画館🎥、レストラン🍴などありとあらゆるものがここに来れば手に入りました。ショーウィンドウの華やかさでいえば、東京の銀座や大阪の心斎橋を超え、ニューヨークの五番街やブロードウェイに匹敵するほどだったそうです。

 世界的に有名となった俳優の三船敏郎さんの実家の写真館もこの連鎖商店街にあり、連日賑わっていたそうです。ちなみに三船さんは、1987年に日中国交正常化15周年を記念して開かれた映画祭に招かれ、戦後初めて大連を訪れましたが、大連や連鎖商店街跡地の余りに酷い荒廃ぶりに絶句したとか・・・。三船さんは日本に帰る飛行機🛫の中で終始怒鳴り散らしていたようです。

 連鎖商店街は設備面でも当時大連でも画期的だったセントラルヒーティングや全店舗が水洗トイレを備えており、まさに国際港湾都市・大連に相応しい、それこそ先進的な‟東洋一の商店街”だったと言えます。当時新天地を求めて大連にやってきた日本人にとって、この連鎖商店街にお店を出すことは一種のステータスだったようです。

 

大連 天津街 

特急あじあ号

 

 ちなみに恥ずかしいことに、私はこの「連鎖の街」という歌詞を今までずっと「列車の街」と思っていました。というのも大連は超特急あじあ号の始発駅で、満州国への鉄道の起点だったからです。先程のサザンオールスターズの「流れる雲を追いかけて」の歌詞にある「ハルビン行きの列車」もこのあじあ号を指していると思います。

 あじあ号は当時の満鉄が世界最高水準の旅客サービスを提供するために技術の粋を尽くし設計開発した特急列車で、最高速度130㌔を誇る美しい流線型のパシナ型蒸気機関機関車と超豪華な客車で構成されており、‟夢の超特急”とも呼ばれていました。

 

大連駅

 あじあ号は大連から満州国哈爾浜までの950㌔を12時間半をかけて走行しました。(大連は満州国ではなく、中国からの租借地で日本の関東州の一部でした。)大連から新京間の700㌔に関していえば8時間半で、これは新幹線🚅のこだま号に匹敵するスピードだそうで、当時の日本国内のどの鉄道路線よりも最速でした。

 当時日本で最も速かったのは特急「」で、東京から神戸までの590㌔を平均時速68.4㌔で走行していました。それに対しあじあ号は大連-新京間を平均時速82.5㌔で走行していますから、実に14.1㌔もあじあ号の方が速かったことになります。

 あじあ号を開発した満鉄には鉄道技術者だった島安次郎さんがいて、島さんは息子の島秀雄さんとともに後の新幹線🚅の基礎となった弾丸列車計画を推進した人物と知られています。

 島さんはレールの間隔1435㎜の標準軌鉄道の推進者で、当時の日本の鉄道の軌間が1067㎜の狭軌鉄道だったため、列車はなかなかスピードアップができない状況でした。島さんは満州の地で標準軌鉄道を開発し、あじあ号がその夢を実現したと言ってもいいでしょう。

 あじあ号には当時は画期的とされた冷暖房装置を備えており、客席は一等・二等・三等を問わずに客席は快適だったようです。また最後尾には定員4名の豪華なパノラマ式展望室を備えた車両もあったようです。

 食堂車には満鉄が経営していたヤマトホテルが調理を任されており、和食や養殖が提供されていました。1935年にあじあ号が哈爾浜に延伸した際にはロシア料理が提供されるようになり、それとともに白系ロシア人のウェイトレスが乗務するようになりました。また車内では2種類のオリジナルのあじあカクテル🍸も提供されていました。文字通り絢爛豪華な列車で今なら鉄道ファンの垂涎の的になったのではないでしょうか!?

 あじあ号を牽引したパシナ系蒸気機関車は現在遼寧省瀋陽(旧奉天)市の瀋陽鉄道陳列館に保存・展示されています。一般人には公開されていないようです。また当時モダンだった濃紺だった車体の色も、水色と濃緑に塗り替えられており、現在の中国らしい趣味の悪さを感じさせます。あじあ号の客車は戦後は北京-満州間で使用されたようです。

 

欧米の一流ホテルを目指したヤマトホテル

 

 あじあ号の項で名前が出てきたヤマトホテルですが、ヤマトホテルは満鉄が経営していたホテルブランドで、満鉄初代総裁だった後藤新平の「欧米の一流ホテルに引けを取らないホテルをつくれ」の号令の下、1907年の大連ヤマトホテルを皮切りに、大連星ヶ浦(大連郊外の景勝地に開発された海浜リゾート地)、旅順長春(新京)、奉天哈爾浜といった満鉄沿線の主要ターミナル駅とリゾート地に16のホテルがオープンしました。特に大連、奉天長春、哈爾浜にあったヤマトホテルは豪華絢爛だったそうです。

 ヤマトホテルは豪華さを誇った建物に加え、そこに従事するスタッフも超一流で、研修では英語。接客マナーに加えて歩き方まで厳しくたたき込まれていました。後の帝国ホテルの社長となった犬丸徹三さんのホテルマンとしての原点は長春ヤマトホテルで、最初の仕事はボーイでした。

 ただこうしたサービス面を重視したため、ヤマトホテルの収支は慢性的に赤字でした。それでもヤマトホテルが採算を度外視して物的・質的に事業を展開したのは、満州の地がヨーロッパとアジアを結ぶ接点であり、ヤマトホテルは国際社会へのショーウィンドウ的な存在でした。そのためにもヤマトホテルは欧米に負けない豪華さやサービスが求められ、スタッフたちはホテルのプライドを持ってお客様に接しました。

 ちなみに1945年の終戦とともに満鉄は解体されましたが、一部のヤマトホテルの建物は現在もなお中国のホテルとして営業を続けています。

 

旧大連ヤマトホテル

 

奉天ヤマトホテル

 

七族協和の国際都市哈爾浜

 

 現在中国黒竜江省省都である哈爾浜は19世紀後半に帝政ロシア満州進出の拠点として建設された街でした。1898年に満州を横断する東清鉄道の建設が着手されると、満州の中央部に位置する哈爾浜はシベリア鉄道に直結してヨーロッパへの行く起点となりました。またロシア革命後は難民となった白系ロシア人流入によりロシア文化が華開きました。

 そのためロシア正教会の聖堂が多く建設されました。哈爾浜を代表する建築物とされる聖ソフィア大聖堂は1907年に創建されています。

 

哈爾浜 聖ソフィア大聖堂

 哈爾浜には白系ロシア人の他にロシア革命ナチス・ドイツの迫害からシベリア鉄道に乗ってユダヤも多く逃げ延びてきました。当時のユダヤ人のコミュニティーは迫害からの安住の地として満州を想定しており、その中心となったのが哈爾浜でした。哈爾浜では3度にわたり極東ユダヤ人会議が開催されています。
 そのため哈爾浜は満州国の五族()に加え、(ロシア)とユダヤ)が七族が共存する社会が構築され、それぞれの民族が協和と対立を繰り返す中、独特の文化と生活様式が熟成されました。

 ちなみに第二次大戦中、ナチスドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人を救った外交官、杉原千畝さんは外務省の官費留学生として哈爾浜に派遣されており、聴講生として哈爾浜学院でロシア語を学んでいます。

 ちょっと話は脱線しますが、哈爾浜の中心部を流れる松花江の中にある太陽島景勝地として知られており、毎年1月には日本のさっぽろ雪まつり、カナダのケベック・ウィンター・カーニバルと並ぶ世界三大雪まつりの一つであるハルビン氷祭り(アイスフェスティバル)が開催され、100万人以上の観光客で訪れるそうです。

 

ハルビン アイスフェスティバル

 

満州国への考察


 19世紀から20世紀にかけて、近代国家としての歩みだした日本にとって、ヨーロッパ列強によるアジアの侵略、とりわけロシアの南下は脅威でした。こうした一触即発の国際情勢の中で、日露戦争の勝利によりロシアより満州の権益を獲得した日本でしたが、後のロシア革命蒋介石率いる中国国民党政府による支配が満州に及ぼす影響を恐れ、次第に「満蒙は日本の生命線」とみなされるようになりました。

 このような背景の中で建国された満州国でしたが、当時の緊迫する北東アジアの国際情勢を鑑みて、満州国及び日本に同情するべき点はあるとしても、やはり満州国の建国は日本による侵略であり、いかなる理由があるとしても、他国への侵略は許されるべきものではないでしょう。

 建国の理念として掲げた「五族協和」と「王道楽土」といったスローガンも所詮は「絵に描いた餅」に過ぎず、実際の満州国は日本の関東軍が占領した傀儡国家であり、植民地でもあったことに変わりはないでしょう。

 ただ満州国における日本の植民地政策は欧米の植民地と比較して特筆すべきものだと思います。満州国では欧米の植民地とは違い、一方的に現地民から搾取する政策をとらず、教育やインフラなどの社会資本を充実させ、現地民を日本に同化させることで収益を得る「同化政策」を採用したことは評価に値するべきだと私は思っています。

 

終戦前夜の満州の悲劇

 

 また戦争には多くの悲劇がつきもの。1945年8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄し日本に宣戦布告したソ連がソ満国境の北部ハイラル方面、東部沿海州、西部外蒙古の3方面から電撃的に侵攻しました。満州国を防衛するはずの関東軍は日本の太平洋戦争での戦況の悪化のため、兵力の大半が南方戦線に移送されており、また十分な戦力を持っておらず、ソ連軍の圧倒的な兵力の前に国境付近で多くの部隊が全滅しました。

 満州国を防衛する関東軍が不在の中、卑劣極まるソ連軍の侵攻の犠牲となったのは満州日本人居留民でした。満洲に侵攻したソ連軍は虐殺強姦略奪などありとあらゆる犯罪行為を行い、満人・漢人・鮮人の一部もソ連軍に加担しました。

 中でも1000人以上の民間人が犠牲となった葛根廟事件では、ソ連兵は戦車で民間人を轢き殺した上、機関銃を乱射し、まるで虫けらを殺すように虐殺を繰り返したとされ、また生き残った子供たちも中国人の人身売買の対象となり、多くの子供が犠牲となりました。ノンフィクション作家の藤原作弥さんは後にこの事件は一国の軍隊によって無差別に大量虐殺されたジェノサイトだと評しています。

 福岡県筑紫野市にあった二日市保養所では、太平洋戦争終了後、満州や朝鮮から引き揚げ、現地でソ連兵・朝鮮人・中国人から強姦の被害を受けた日本人女性の検査を行い、必要に応じて堕胎手術や性病の治療を施したとされています。

 昨年2月にロシアウクライナに電撃的に侵攻し、今もなお継続しているロシア・ウクライナ戦争が始まりました。ロシア軍はウクライナの首都キーウ侵攻の際に、キーウ近郊のブチャで大量虐殺を行ったとされ、犠牲者の数は410人に上っています。

 終戦時における満州での大量虐殺と昨年のブチャの虐殺、太平洋戦争終結から70年以上経過しましたが、イデオロギーによるものなのか、それとも民族性によるものなのかわかりませんが、何れにせよロシア人の残虐性は今も昔も変わらず、そのような残忍な民族が海を挟んで近くにいることに暗澹たる思いがします。

 

もしも満州国が今も存在していたら?

 

 傀儡国家であった満州国が当時の国際社会から批判されてはいますが、満州国の中枢にいて新国家をアジアの一等国にするべく切羽琢磨した人、この記事ではヤマトホテルや特急あじあ号に例に挙げていますが、満州の地で世界最高の水準を達成するために日々努力をした人たちの熱意を反故にすることはできないと思います。どれも日本人ならではの勤勉さで、当時としては世界最高級の品質を生み出した訳で、そしてそれは満州国を短期間のうちに世界有数の先進国の礎となりましたし、満州国は建国10年で人口は1100万人も増加しています。

 またこれは意見が分かれるかも入れませんが、満州国建国により、馬賊上がりの軍閥群雄割拠し、化外の地と呼ばれ、治安や経済状況が最悪だった満州を安全な場所にし、経済も安定した状況に持って行ったことは特筆すべきことだったと思います。

 歴史に「もしも」はありませんが、もしに仮に日本軍が東南アジアへの南侵政策をとらず、満州国が現在も存在していたらどうなってるのだろうと、自分の心の中でシミュレーションすることがあります。当時の日本のネックとなっていたのは石油など天然資源であり、黒龍江省大慶油田の発見が10年早ければ、サハリンの油田の開発と相まって、天然資源の枯渇には悩むことはなかったと思われます。ただその場合は中国国民党との不毛な争いを辞めることは必須条件であり、それは帝国陸軍の沽券にかかわる問題であり、実現は不可能だったと思います。

 またユダヤ人に関しても、1930年代には満州にヨーロッパでの迫害を逃れたユダヤ人を招き入れユダヤ自治区を建設する「河豚計画」というものがあり、もし実現していれば、ユダヤ人の持つ金融資産の恩恵を日本及び満州国が享受することなとなり、日本と双璧となすアジアの強国となっていたかもしれません。また現在のパレスチナ難民の問題もなかったはずです。

 ただこのシミレーションは私のない頭と中途半端な知識によるもので、学術的な根拠はありませんし、恐らくほとんどは間違っていると思います。ですので反論されると一たまりもありませんので、その点はご理解いただけるようにお願いいたします。

 

おわりに

 

 今回の記事は今週のお題を題材にし、行きたい国として戦前東北アジアに忽然と現れ、僅かな期間で消え去った満州国について記述しました。記事に着手する前は2000字程度と予想しましたが、あれも入れたい、これも入れたいとなって、字数は10000字を超え、いつもの事ながら今週のお題が先週のお題になってしまいました。また記事を日曜の日付にするため、中途半端で投稿しました。そのため途中で切れてしまい、記事の内容がおかしなものになったことをここでお詫びいたします。

 ともあれ私の行きたい国である満州は行くことが出来ない過去の産物であります。満州国へは書籍や映像🎥といったバーチャルな世界でしか訪れることはできません。ただその分、より一層想像を掻き立てることはできますし、浮世の諍いや悲惨な争いに遭遇することはありません。想像の中で、今宵は大連のヤマトホテル🏨に宿泊し、特急あじあ号に乗って、異国情緒あふれる哈爾浜に旅をします。

 それでは 皆さま、BON VOYAGE!!

 

参照:Wikipedia 満州国、中央大街、五族協和、NUDE MAN、アジア(列車)、

      新幹線、島安次郎、弾丸列車、ヤマトホテル、ハルビン市、太陽島、

      ハルビン氷祭り、杉原千畝満州事変、葛根廟事件、二日市保養所、

      2022年ロシアのウクライナ侵攻、ブチャの戦い、南進論、北進論、

      大慶油田サハリンプロジェクト、河豚計画

   ジャパンナレッジ 満州国

   満州化物語 喜多 由浩 集広舎

      サザンや井上ひさしが描いた「連鎖商店街」、

      「世界のミフネ」を育てた写真館、

      欧亜を繋ぐ音楽の都・哈爾浜、

      露人ウェートレスに冷暖房完備の世界一の列車、

      世界一流を目指したヤマトホテル、

      欧、亜、ユダヤ……七族混在のハルビン   

   満州鉄道まぼろし旅行 案内人 川村 湊 文春文庫    

写真:無料写真素材 写真AC 

   ハルビンアイスフェスティバル、ハルビン 夜の中央大街 y********************p

   中国 大連 天津街の風景、中国大連駅の風景、中国 瀋陽 中山広場の近代建築

   中国 大連 中山広場の旧大連ヤマトホテル、 しょんまお

   聖ソフィア大聖堂 佳林

イラスト:無料イラスト素材 イラストAC 満州国の国旗 まりん

 

お恥ずかしい文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

ランキングに参加しています。クリックして応援していただけたらうれしいです!

 


人気ブログランキング